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両親がブラジル移住を決めたきっかけ
Masato Ninomiya September 19, 2019
結局私の父は7人家族なんですけど、ある時5人までブラジルに行ってた時期があるんですね。二宮コトと言うのがいて、これはだから私の父の姉ですね。それから私の父の二つ年上の二宮トクイチと言うのがいまして、これ全員、そのくましたはるみと言うその私の叔父の構成家族として1926年か27年にブラジルへ行ってるんですね。 で、まぁ二宮コトは「しむた」と言うまあ福岡県出身の人と、ブラジルで結婚した。 1952年の2年の終わりか1953年の初めに日本へやってきたそのしむた夫妻がものすごいお金持ちに見えて、彼らはまあ私たちの生活を見て、「こんなものはもうブラジルの方がもっといいと。日本はもう戦争に負けて、もう日本に未来はないからブラジルに来ればいい生活ができる」みたいなことを言ったんですかね。それでまあ、うちの両親は、まぁその言葉になんて言いますかねぇ、乗せられてですね「それでじゃあブラジルに行こうか」と。 1953年の11月28日にアメリカ丸と言う船で横浜を出て、それで1954年の1月16日にサントスに着いたんですね。

日本政府の日系人に対する誤った思い込み
Masato Ninomiya September 19, 2019
1990年の6月に入管法改正されて、来年で30年になるんですけど、二世、三世の人たちが日本にどんどん行き始めていた時代なんですね。 日本政府は二世、三世ならば日本語もできるだろうし、日本文化もある程度分かっているだろうし、日本に適応するスピードも早いんじゃないかみたいなことを考えて入れたんですが、当時私もインタビュー受けてどう思うかと聞かれて、私はね、「日系人を日本人と同じだと思ってると間違いが起こりますよ」と言ったようなことを覚えているんですけどね。 実際その通りになったわけですよ。日本語ができると思って入れたんだけど、実はできなかったりね。それから、子供たちも連れてきたら、その子供たちが日本の学校に適応できなかったり。というようなことで、日本の外務省と労働省がですね、サンパウロにやって来て、とにかく日系人を、日本に働きに行くにあたって、事前に日本語とか、日本の文化、日本の法律、日本の習慣なんかを事前に教育する団体が必要だと、いうことで、文化協会とそれから県人会連合会とそれから援護協会、その3団体に話があってですね、その3団体から5人ずつ人を出して評議委員会を作って、私がそのCIATE(Centro de Informação e Apoio ao Trabalhador no Exterior、日伯雇用サービスセンター)の理事長になったわけですね。延々と27年間それを続けてやっているんですが。