Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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日系(ニッケイ)—をめぐって

第22回 戦争、そして海を渡った日本女性 ー 『花嫁のアメリカ[完全版]』を読む

戦争花嫁の戦後 1945年の敗戦後、占領軍として多くのアメリカの軍人、軍属が日本に駐留した。若い彼らと日本人女性とが恋愛関係に陥るのは、当然の成り行きだった。彼らと結婚しアメリカに渡った女性たちは「War Bride」、日本語にすると「戦争花嫁」と呼ばれた。 戦時中は「鬼畜米英」と唾棄していた国の男性と結婚するこうした日本人女性に対する世間の視線や、親の反応が一般的にどんなものだったかは、容易に想像がつく。それでも彼女たちは結婚し、海を渡り、その他多くの日本人女性が戦後の復興期から高度経済成長期に日本国内で送った人生とは、まったく異なる道を歩んできた。 もちろんその道は百人百様だが、「戦争」を挟んだ時代という共通項をもつ彼女たちならではの生き方が確かにある。約4万5000人といわれている彼女たちにスポットをあてて、その姿と言葉を写真と文章で紹介したのが、写真家、江成常夫氏である。1936年神奈川県相模原市に生まれた江成氏は、毎日新聞社をへてフリーの写真家となり、アメリカで戦争花嫁の取材をてがける。 その成果として、『花嫁のアメリカ』(朝日新聞社アサヒカメラ増刊号)を1980年に発表、その後、講談社から単行本(1981年)、文庫(1984年)として出版した。さらに当初の取材から20年後にふたたびかつて取材した人たちを追い、『花嫁のアメリカ 歳月の風景1978-1998』…

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第21回 『移民がつくった街サンパウロ東洋街』著者、根川幸男氏にきく

世界最大の日系人社会を構成するブラジル・サンパウロの日系人街をテーマにした『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(東京大学出版会、2020年刊行)の著者で、国際日本文化研究センター特定研究員の根川幸男氏に、移民研究や本書が生まれる背景をきいた。 冒険譚としての「移民」の魅力 ——移民の問題に興味をもったきっかけはなんだったのでしょうか。また、そのなかでブラジルの日系社会の歴史を研究された理由はなんでしょうか。 根川: 1992年、カルナバル見物のためはじめてブラジルを訪問した時、サンパウロ東洋街にあるペンションに宿泊しました。そこで多くの在伯日本人や日系人に接触して、彼らや彼らの祖先はなぜこんな地球の反対側までやってきたのだろう?と、素朴な疑問を持ちました。また、Sさんという、戦前にブラジルに移民し、サンパウロ州内陸のバストスという移住地(当時は開拓フロンティア)でカウボーイ(カパタイスという牧場支配人)をやっていたというおじいさんに出会い、かっこいい生き方だと思いました。 その方は中学生の時にハリウッド映画を見てカウボーイに憧れ、自分の土地を買ったうえでブラジルに移民したということでした。当時は、移民というのはいわゆる食いつめもの、というイメージを持っていたので、実家が愛媛県の大庄屋で父が県会議員であったというSさんのお話に…

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第20回 サンパウロ東洋街—ブラジルの日系

日本から見れば地球の裏側に位置する南米の大国、ブラジル。ここには190万人もの日系人が暮らし、世界最大の日系社会を構成している。どこの国からの移民でも数が多くなれば、自然と人々は集まり母国と同じようなコミュニティーが形成され、異国の中の小さな母国社会が誕生する。 母国と似たような店ができたり、街並みが生まれたりする。しかしそれは、似て非なるものである。気候風土が異なり、文化が異なり、社会制度も異なる条件のもとで誕生するのは母国のものをアレンジした、“母国風”といっていいだろう。 そして時の経過とともに世代が変わり、移民の子孫はその国の人間に徐々になっていき、1世が培った文化はさらにアレンジされ、やがて2つあるいはそれ以上が融合した新たな文化が生まれる。コミュニティーもまた変容していく。 『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(根川幸男著、東京大学出版会、2020年刊行)は、そうした移民社会の変化を、ブラジルの日本(日系)社会を通して教えてくれる。 新たな文化へのいざない 著者は、1996年からサンパウロで4年間生活し、そこで研究した総決算として修士論文「サンパウロ東洋街の形成と変容——都市サンパウロのアジア系移民の一局面」をまとめる。これを土台として、「世界最大の日本人街と呼ばれたサンパウロ東洋街…

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第19回 瀬戸内の日本ハワイ移民資料館

大小約700もの島が点在する瀬戸内海で、山口県南東部に位置する周防大島(正式には屋代島)は3番目に大きな島だが、ここに日本ハワイ移民資料館(Museum of Japanese Emigration to Hawaii)がある。観光的には「瀬戸内のハワイ」とも呼ばれる島の資料館とはどんなものなのか、なぜここに資料館ができたのか、中国地方への旅の途中で訪ねてみた。 資料館は成功者の家 国道188号から車で大島大橋を渡り島に入り、海岸沿いをしばらくすすんでから内陸に入ると案内が出ている。これを頼りにさらに長閑な田園地帯の細い道を右に左に行くと、ようやく木造二階建ての資料館にたどり着く。  どうして、こうした入り組んだところにあるのかというと、この資料館は、もとは明治時代にこの島からアメリカに渡って成功した福元長右衛門という人が、1924(大正13)年に帰国したのちに建築した住居で、それをそのまま利用したためこの場所となったのだった。いまの金額に換算すれば推定およそ3億円をかけたとされる建物は、伝統的な日本家屋に洋式の意匠を取り入れた和洋折衷の趣がある。 周防大島からは明治時代に島をあげて多くの人がハワイへ移民、その歴史を後世に残しておくため、1999年、地元周防大島町(山口県周防大島郡)によって開館したのがこの資料館だ。 日本のアメリカ、ハワイへの移民の歴史を踏まえて、…

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第18回 世界の沖縄人が集うウチナーンチュ大会

沖縄の個性の象徴 沖縄にルーツをもつ世界各地の人たちが、一堂に会した「第7回世界のウチナーンチュ大会」(同実行委員会主催)が、10月30日から11月3日まで那覇市を中心に沖縄各地で開かれ、日本のなかで「世界とつながる沖縄」の独自性が見事に表わされた。 「ウチナーンチュ」とは、沖縄の言葉で「沖縄の人」を意味する。つまり世界に散らばった沖縄県人が、その母国ならぬ母県に集い、沖縄の人と交流を深め、沖縄を軸としたネットワーク=ウチナーネットワークを維持、発展させようというのがこの大会だ。 実行委員会は、県をはじめ経済、金融、マスコミ、国際交流、文化などの民間団体からなり、沖縄県をあげての一大イベントでもある。 広島、熊本などと同様に沖縄は多くの移民を輩出した県として知られる。その歴史は1900年のハワイへの移民からはじまり、以後戦前・戦後を通して北米、南米などへ渡る人々はつづいた。今では、海外で暮らす沖縄からの移民やその子孫(沖縄県系人)は、約42万人とみられる(平成28年度推計値、沖縄県交流推進課)。 その内訳は、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビアなど南米全体で約25万人、アメリカなど北米で約10万人で、そのほかヨーロッパ、中国、オーストラリアなど世界各地に広がっている。しかし、移民を多く輩出しているほかの県でも、調査をしてみれば同様にかなりの数の「県系人」が世界に…

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