Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立~ヤマトコロニー先導者と丹後ちりめん - その3

>>その2沖家と酒井家沖氏のおかげでいくつかの謎が解けたというか、コロニーがどういう歴史的な経緯で誕生したかが浮かび上がってきたが、さらに沖氏の姉である長屋光子さんからは、沖家やコロニーについてのエピソードを聞いた。長屋さんは、祖父である光三郎氏のことを覚えていて、「体が大きくて、厳しい人だった」と振り返る。また、祖母とは田舎(峰山町)の大きな門構えの家で小さいころ一緒に暮らしていたこともあったという。 この祖母というのが酒井襄氏の姉にあたるわけで、光三郎氏がアメリカで急逝してしまい、コロニーの事業も結局失敗に終わってしまったことで、祖母は、複雑な立場と心境にあったろうと述懐していた。 また、子供のころに、ヤマトコロニーの写真を見たことがあり、いまでも記憶にあるという。 「バラックのような建物のベランダがあるようなところで、みんながハイカラな格好をして写っていました……線路で荷物を運ぶための駅舎のようなものもありましたね」。残念ながらこうした写真は、戦災ですべて焼けてしまった。 コロニーから日本に引き揚げてきた親戚にも会ったことがあり、やはり「ハイカラな格好をしていた」という。 沖氏と会ってからほぼ半月後、今度は京都で酒井隆子さんと会うことになったのだが、その直前に、彼女から酒井襄氏の孫にあたる水戸部浩氏が同じ京都にいることを教えられた。これ…

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フロリダと天橋立~ヤマトコロニー先導者と丹後ちりめん - その2

>>その1 謎が解け、コロニーの背景もこうして酒井氏と知り合ったことをきっかけとして、これ以後何人かの人たちに取材できたことで、酒井襄氏に関する謎が一気に解けていっただけでなく、ヤマトコロニーが誕生していく歴史的な背景が明らかになっていった。というのは、電話で連絡をとった隆子さんから教えてもらった沖守弘氏という写真家にまず出会ったからだった。 沖という名前がこのコロニーへのおもな入植者の一人であることはわかっていた。1961年に新日米新聞社から発行された「米国日系人百年史―在米日系人発展人士録」には、日本からの米国移民の歴史が各州別に具体的な名前をあげながら紹介されている。フロリダ州の紹介のなかで、ヤマトコロニーについての記載があるが、そこに宮津から入植した一人として沖という名前がでてくる。しかし、苗字だけで名前はない。 この沖と縁戚関係にあるのが沖守弘氏だと教えられ、さっそく都内にある沖氏の自宅を訪ねた。昭和4年生まれの沖氏は、インドで救貧活動をつづけた修道女、マザーテレサを70年代から撮り続け、日本に紹介したことで知られる写真家で、マザーテレサの写真集も出版している。この秋にはイタリアで彼の撮ったマザーテレサの写真展が開かれるところだった。 私がヤマトコロニーについて調べていることを話すと、沖氏はこれについて彼自身が集めた数多くの資料をもとに説明してくれた。そこでわかっ…

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フロリダと天橋立~ヤマトコロニー先導者と丹後ちりめん - その1

明治時代にアメリカの南東部にあるフロリダ州に農業移民としてわたった人たちの歴史と、その地が現在モリカミ・ミュージアムという立派な博物館と日本庭園 に姿を変えていることを、過去2回にわたって紹介してきた。(参照:「フロリダの日本庭園とコスプレ」、「フロリダと天橋立」) この移民たちの入植地はヤマトコロニーと名付けられ、コロニーに通じる道はこれにちなんでYamato Road(ヤマトロード)と名付けられた。フロリダという日本人にはなじみのない場所に、このユニークなコロニーができたきっかけをつくったのが、酒井襄(もともとは醸だった)と奥平昌国という二人だった。 ニューヨークに留学中の二人が、フロリダで農業移民として日本人を求めていることを知り、それぞれの郷里である京都の宮津、大分などで入植を呼びかけたのである。この当時ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞこの二人はそれなりの家柄や経歴の持ち主だと想像されるが、事実、奥平昌国氏は、九州中津藩の藩主だった奥平家を継いだ奥平昌恭氏の弟であることがわかっている。 しかし、酒井氏については、アメリカに残された資料などによると、宮津出身で同志社を出てニューヨークに留学したということぐらいしかわからなかった。彼がきっかけとなってフロリダのデルレイ・ビーチ市と宮津市が姉妹都市関係にあるのに、どういう出自かといったことが宮津市でも把握さ…

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フロリダと天橋立-その3

その2>>100年後のフロリダと宮津をつないだ酒井襄とは?以上が、ヤマトコロニーと森上氏の歴史であるが、おさらいしてみればわかるように、最終的にこの「モリカミ」が誕生したその発端は、森上氏との直接の関係で言えば酒井襄氏である。記録によれば、彼は1874(明治7)年生まれで95年に同志社を出て、同志社の創始者である新島襄を見習ってアメリカへ渡ったという。名前の襄も、新島襄に倣ったらしい。50歳前にアメリカで亡くなっている。 「モリカミ」がまとめたヤマトコロニーの資料によれば、酒井家は宮津藩に使えた侍の家系だったという。ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞ立派な家柄か優秀な人物で、故郷の宮津では知られているのだろうと思い彼の足跡も調べてみた。 しかし、これが不思議なことに、何者なのかがよくわからない。まず、宮津市役所に問い合わせてみたところ、同市総務室で広報を担当する横谷宏明氏がいろいろと調べてくれたのだが、どうも酒井という名前のそれらしき家はあっても、酒井襄とはつながらないというのだ。 さらに、となりの京丹後市にも問い合わせてくれたのだが、手がかりはつかめなかった。ならば、一度現地を訪ねてみようと思い、たまたま姉妹都市のデルレイ・ビーチから高校生や、三堀氏など「モリカミ」の関係者がやってくるというので、6月半ばに出かけてみた。 郷土史の関係者をはじめ森上氏の親戚…

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フロリダと天橋立-その2

その1 >>自分の名前をフロリダに残すために結局、耕作条件は悪くそのため農業としては目立った成果も上げられず、入植者は徐々に減っていった。真偽のほどは定かではないが、土地を所有した日本人のなかには1925年にマイアミビーチが開けて、フロリダの土地ブームがおきるなかで土地を高値で手放し、帰国したり他州へ移ったものもいたという。 そして、太平洋戦争が始まる頃には、コロニーに残っていたのはわずか数家族だけになった。また戦争によって42年には、コロニーの土地はアメリカ政府によって没収される。こうしてコロニーは戦前に事実上消滅していった。 しかし、森上氏だけは農業を続け踏みとどまった。これより前に英語の話せなかった彼は、地元の子供たちにまじって英語を学び、自分で収穫した作物を売買もした。戦争中森上氏は、地元の農園主の管理下に置かれ無報酬で耕作を続けたが、戦後になって耕作した土地を無償でもらい受けることができたという。 戦後も農業を続ける一方で少しずつ土地を買い増ししていった。そして最終的には150エーカー以上の土地を所有することになった。それでも土地を売ることはせず、パイナップルや野菜に囲まれた自然のなかに彼は身を置いたが、現地での家族はなく、トレーラーハウスを生活の場としての暮らしぶりは質素だった。 日本人の移民一世の多くが、成功の暁には故郷に錦を飾ることを夢見ていたように、森上…

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