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家の中で日本語を話すことを強要した父
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
家の中では日本語を話せと。弟や妹はブラジルで生まれたわけだから、弟や妹はどうしてもポルトガル語でしゃべる傾向があったけど、やっぱり父は洋服の仕立て屋だから、四六時中家にいるわけですね。それで、ポルトガル語でしゃべっていると怒られたりですね。日本語で話せと。 だから、最初のころはまぁ抵抗はなかったけれど、思春期になると、そういうのに非常に抵抗を覚えてですね。なんだ、ブラジルへやってきてね、日本語ばっかりしゃべって、っていう。それを今度は子供たちに強制するのはけしからんと思ったりしましたけど。まぁ今はですね、やっぱりそういう風にして日本語を話すことを強制してくれるだけあって、日本語が話せることにはならないわけで、そういう意味では親に感謝してますね。

戦時中に厳しく規制された外国語教育
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
それでブラジル政府は、まず1938年の12月でしたかね、外国語による教育を禁止したんですね。それはドイツ語と日本語とイタリア語だったんです。英語とフランス語はそういった制限にはひっかからなかったんですけど。 ただサンパウロの場合はですね、ハワイにおける日系人と同じで、そのイタリア語を制限すると、サンパウロの街が成り立っていけないような感じだったはずなんですね。イタリア語の影響がサンパウロにおいては強いんで。そうするとイタリアは、戦争が始まってもすぐ降伏してしまったり。イタリア移民とかイタリア語に対する制限てのはそんなに厳しくなかったような気がする。 日本語は、もう日本語とドイツ語ってのはやっぱり、ものすごくやっぱり厳しく制限されてですね、戦時中なんてのは、日本語、3人で日本語喋っているとなんか逮捕されるとかですね、そういうようなこともあった。

子供の日本語教育について
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
サンパウロに住んでるうちにですね、私の父は1989年に亡くなって、母親は私の家族、弟の家族も自分のところに来て住まないかと言ったけど、母は私のところに来ることを選んで、我が家で生活を始めたと。そうすると、三男が1990年に生まれてますから、三男がおばあちゃん子で、一生懸命おばあちゃんが日本語で喋ってですね。それから上の二人も日本語で喋って。うちの母が子供達の日本語教育に貢献してくれたけど、夫婦の会話は常にポルトガル語ですよ。母親だけが日本語しか喋れないので、母親と私の子供達、母親と孫達、母親が日本語で話すのはわかってたんですかね。 冬になると東京大学に招かれて行くようになって。それはそれで悪いことじゃなかったのは、宿舎を与えられましたから、小さかった子供達を連れて日本に行って、母親も連れてって。したがって自分は、直接こういうれっきとした教育方針をもって、子供たちをある一定のモラルの元に日本語も教えてというようなことは、自分の教育方針としてはっきりと持っていたわけではないけども、しかし間接的にそういう風にして日本に連れて行ったり、日本文化に接するということはしましたね。

日本人のアイデンティティを持ったブラジル人
Masato Ninomiya 19 de septiembre de 2019
一応私はバイリンガルということになっているわけですね。日本語を話してて、私が日本人だと皆思うんでしょうね。日本人が非常に不思議がるのは、そこで電話がかかって来たり、あるいはブラジル人が入って来たりすると、即ポルトガル語に言葉が変わるじゃないですか。それはまあ非常に見事に切り替えができるわけですよね。 その時のアイデンティティーはどうかというと、私は二十歳でブラジルに帰化しているんですね。ですから50年間ブラジル人として生活してきている。日本国籍はその時になくなってますからね。したがって身分証明書上は私はブラジル国籍、ブラジルパスポート。日本では永住権を持っていますけど、日本では外国人ですよね。 しかしそれは単なる紙の上の話であって、「国籍はどこですか?」と聞かれたらブラジルと答えますけど、一方では日本人としてのアイデンティティていうか、それは日本人以上に持っている面もある。 ブラジル人であればこういった反応はしないだろうなと思うものが結構あって。しかし、ブラジル人の中でポルトガル語を喋っている感覚の中では、ブラジル人として普通に持っているものもありますね。