私が初めてPIZZA を食べた時、こんなに美味いものがこの世にあるのかと思った。住んでいた北パラナーではその縁が無かった。田舎者で7歳の子供であった私が、初めてサンパウロに来た時「PIZZA は珍しいだろう」といって、父母が古くから世話になっていた「おタネさん」が取り寄せてくれたのであった。
おタネさんは、1920年代からサンパウロ市のタバチンゲーラ街に「東洋ホテル」を経営していた。西野氏と結婚するまでの姓は「岩尾」だった。世話好きで良く知られた人であった。
初めてPIZZA をご馳走になった頃は、右足が少し不自由で肥り目の女将さんであった印象が残っている。その頃「東洋ホテル」は中央市場、メルカード・ムニシパール前のメルクーリオ通りのビルの上層階にあった。
そのおタネさんについてであるが、昨年、84歳で他界した母が懐かしく語ってくれた話がある。
母の父、奥村宇一は1930年に、移民として来るまでは百姓の経験が無かったので、普通の移民よりひと一倍苦労した。来伯して8年間、一家を引き連れて10回も耕地から耕地をさまよい引越し、やっとJUNDIAIの綿栽培のFazenda Ermindaにたどり着いた時のことであった。
父宇一は、捨ててあった古新聞の切れ端に「東洋ホテル」の新年の挨拶が並んであり、偶然にも「岩尾タネ」の独身名を見つけたのだ。それを目にした父は、地獄で仏を見たような感じがして飛びあがった。熊本市で親しくしていたおタネさんだったのだ。
「おタネはんが来ていなはる!」
日本を出てから初めて頼りに出来る知人と会う事になったのである。その感激は大変なものであったと母は語ってくれた。そして、その関係で母は「東洋ホテル」で働くようになった。その時、母は19歳であった。
私とPIZZAの初めての出会いには、この様なエピソードがあったのだ。そのおかげかどうか知らないが、私にとってメルカード・ムニシパールは、何とも言えない魅力とノスタルヂーアを感じる所なのである。
機会があるたび、私はそこへ足を運ぶ。そこに昔から特別なサンドイッチで有名な小さなお店がある。何時も満員で客が立って待っている。テレビで見るタレント、歌手、有名人なども良く通っている所である。その店では「サンパウロ一」のサンドイッチとパステルが味わえる。たぶん「南半球一」であってもおかしくないと思う。自信を持って誰にでもお勧めできる所である。
私にとって、「南半球一のサンドイッチ」に舌づつみを打つ度、初めてのPIZZAとあの愛嬌の良かったおタネさんの笑顔を思い出す。おタネさんは数年後日本へ帰られ、そこで晩年を過ごされたと母から聞かされた。

サンパウロの名所のひとつMERCADO MUNICIPAL・1933年に落成された。有名な建築家RAMOS AZEVEDOに設計された代表的な建物。1927~ 1932年の間、サンパウロ州がバルガス独裁革命に立ち上がった時、総司令本部として使用された経歴がある。詳細は次のサイトをご覧ください。(ブラジル日系二世BIZマンの健康日記、“サンパウロ中央市場” http://d.hatena.ne.jp/carlos55/20080701/1214889703)
*本稿は、『限りなく遠かった出会い』(2005年)に掲載されたものを加筆修正したものです