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サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~
第6回 2世・3世の訪問団が奄美へ
Saori Kato
2018年11月1日鹿児島で「鹿児島県人世界大会」が開催され、鹿児島にゆかりがある海外在住者(20カ国・地域から約280人)が鹿児島を訪れた。この大会に参加するためにブラジルからは27名が訪問団として来日していたが、そのうち18名が奄美にゆかりを持つ人々だった。なぜブラジルからの訪問団は奄美にゆかりをもつ人々の参加が多かったのだろうか。

サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~
第5回 魚屋を開業、看板に「AMAMI」― 玉利繁弘さん(奄美大島宇検村出身)
Saori Kato
奄美大島宇検村の伯国橋(ぶらじるばし)以外にも、ブラジル奄美移民の歴史を伝えるものがある。1955年、サンパウロ在住の奄美出身者たちによって建てられた奄美会館は、残念ながら2002年、他の日系団体に譲渡されたが、その名称に今も「AMAMI/奄美」の文字が残る。また、サンパウロ市営市場にある魚屋の看板にも「AMANI(奄美)」の文字を見ることができる。魚屋を経営するのは玉利繁弘(76)さん(宇検村出身)と、その息子たちだ。

サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~
第3回 コチア青年、農業に挑戦 ~ 肥後英樹さん(奄美市笠利出身)
Saori Kato
ブラジル移民は主に家族単位で行われていたが、単身でブラジルへ渡った人もいた。敗戦後、多くの復員兵や引揚者が帰国した。国内は敗戦による混乱が続いており、彼らを受け入れる力はなかった。失業者があふれ、深刻な食料不足の状態だった。その打開策として再び海外移住に期待が集まっていった。1953年、戦後初めてのブラジル移民がリオデジャネイロに到着すると、次々と海を渡る人が出始めた。失業問題に食料不足、そして農家の二男・三男対策の一助となることを期待されて始まった「コチア青年移民」「産業開発青年隊」は共に独身青年による単身移住という形態をとっていた。肥後英樹さんはそのコチア青年として奄美からブラジルへ渡った一人だ。

サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~
第2回 60歳超えて踊りの「先生」 ~ 島田シズエさん(宇検村出身)
Saori Kato
2017年11月に刊行された『宇検村誌 自然・通史編』によると、鹿児島県奄美大島の宇検村からのブラジル移民は大正7(1918)年9月に長崎港から讃岐丸でブラジルへ渡航した13家族、54人が初めてのブラジル移民であった。その後、戦前・戦後を通じて81家族、491人がブラジルへと渡っており、奄美において宇検村は最もブラジル移民を輩出した「ブラジル移民村」であった。

サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~
第1回 大高の記憶、鮮やかに ~ 篤常重さん(名瀬出身)
Saori Kato
1908年、日本人がブラジルへ集団移住を始めた。10年後の1918年、鹿児島県奄美からもブラジルへ渡る人々が現れた。2018年はそれから100年目に当たる。筆者は2018年2月25日、奄美文化センターで開催された「奄美市まなび・福祉フェスタ」に奄美からブラジルへ渡った人々を紹介するため、「奄美ブラジル移民談話会」と称し、ブラジル在住の奄美出身者のインタビュー映像やパネル展示を行った。