(英語)サンフランシスコで差別はありました。1900年代前半の排斥運動の時代に比べればずっと少なくなっていたとは思いますけどね。1929年から42年までサンフランシスコで暮らしました。当時はまだ偏見もあり、就職は困難でした。実は、カリフォルニア大学で当時学部長をしていたチャーニン教授に言われたことがあります。私は、チャーニン教授が社会福祉学研究科のトップだった頃に大学院に願書を送り、合格しました。その後、教授から電話で言われたのです。「ホシヤマ君、君が就職できる職場はないのに、どうして社会福祉学の修士号を取りたいのだね?修士号を取っても受け入れてもらえない、認めてもらえないのだから、大学院に進学するより君の履歴書をきちんと見てくれる仕事に就いた方がずっといい」と。
1941年当時の就職差別の状況を、チャーニン学部長も認識していたのです。バークレーの学位を取っても、就職先は限られていました。1941年に卒業した私の同級生も、家業を継いだり自分で商売をしない限りは、グランド通りの店員の仕事で月50ドル稼ぐか、中心部の花屋や市場などで同じように月に50ドルほどの仕事をするしかありませんでした。当時の日系アメリカ人に、雇用はほとんど開かれていませんでした。
日付: 2005年3月4日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター