1942年10月の妹の死(英語)

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語) 1942年10月の妹の死(英語) 戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語) 真珠湾攻撃後の近所の同情(英語) ニューヨーク市の日本人会の起こり(英語) ニューヨーク市の日系人社会との関わり(英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

I*:妹さんが亡くなったのは、確か1942年10月でしたよね。ユザワさんは、その時既にアマチ収容所(別名グラナダ収容所としても知られる)に居ましたか?それとも、サンタ・アニタ集合センターでしたか?

アマチです。

I:一家がサンタ・アニタへ向かった時、妹さんは療養所に入っていて、一緒ではなかったのですよね?

そうです。

I:結核を患っていたのですね?

ええ。

I:一家の強制収容は、妹さんの病状に影響したとお考えですか?

もちろんです。家族で妹を看病することができたのに、施設では妹を気にしてくれる人なんて誰もいなかったんじゃないでしょうか。

I:妹さんが亡くなったことを知った時、それは予測していたことだったのでしょうか?ご家族は、妹さんが亡くなる覚悟はできていたのですか?

いいえ。

I:妹さんの死は、ご家族やご両親にどういった影響を与えましたか?

私たちはその時、グラナダ収容所に居ました。父は気丈に振舞っていました。母は…母は、泣き崩れました。

* "I"はインタビュアー(ダニエル・H・イノウエ)

日付: 2006年3月2日
場所: 米国、ニューヨーク州
Interviewer: ダニエル・H・イノウエ
Contributed by: Asian/ Pacific/ American Studies Program and Institute, Department of Social and Cultural Analysis, New York University.

camps family Granada internment World War II

最新情報を入手

最新情報メールの配信登録

Journal feed
Events feed
Comments feed

プロジェクトをサポート

ディスカバー・ニッケイ

ディスカバー・ニッケイは、互いにネットワークを広げ、日系の体験談を分かち合う場です。プロジェクトを継続し、より良いものにしていくためには、皆さまのご協力が不可欠です。ご支援お願いします!

サポートの方法>>

プロジェクト企画 全米日系人博物館


主な援助
日本財団