与那嶺 要 (ウォーリー・ヨナミネ)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

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