私自身は日本生まれの新一世だ。渡米して17年が経ち、その間、さまざまな日系人の方々に取材をしてきた。リトルトーキョーにある全米日系人博物館にも、旧東本願寺の建物を使用した旧館時代からたびたび訪れる機会があった。
この17年間の経験を通して、私たちが何の問題もなくアメリカで暮らすことができる基盤を築いてくれた日系人の先達への敬意は揺るぎないものとなっている。しかし、それは知ることがなければ育まれなかった気持ちである。人は知ることなくしては、感謝することはできない。
何が言いたいのかと言うと、短期間アメリカに赴任してくる日本からの駐在員はもちろん、永住している人の中にも、戦時中に日系アメリカ人が強制収容 所に送られていたことを知る人があまりにも少ないということだ。その歴史の事実を知らなければ、義憤も、また感謝さえも感じることはない。
全米日系人博物館でドーセント(ガイド)のボランティアを務めるネーハン・グルックさんは、ドイツ系アメリカ人だ。父親はニューヨーク生まれで、母 親はアイルランド生まれ。彼自身に日系の血は流れていない。しかし、1950年代にロサンゼルスシティーカレッジで出会った、彼が「生涯の友」と語る日系 アメリカ人、カズオ・ヒラタさんが彼にとっての大きな転機を作った。カズさんから聞かされた収容所での話は、彼にとっては信じられないものだった。「自分 と同じアメリカ生まれのアメリカ人が、たとえ日系とは言え、強制的に収容所生活を強いられていたなんて、それまでは聞いた事もなかった」
ネーハンさんは、1956年リトルトーキョーで催されたカズさんの結婚式と披露宴にも出席し、現在に至るまで家族ぐるみの交流を続けている。
日系に関わることになった決定的な転機は、カズさんと知り合って40年経った頃、1994年に訪れた。1992年には、長年勤続したロサンゼルス郡の仕事をネーハンさんは退職し、引退生活に入っていた。
「リトルトーキョーにあるレストランでカズ夫婦と食事をして、全米日系人博物館の辺りまで歩いて来たら、通りに面した屋外にバラック小屋が展示され ていた。それまで収容所のバラックなんて見た事もなかったから、これは一体何だ?と興味を持った。すると、その小屋はハートマウンテン収容所で実際に使わ れていたものだったんだ」
聞けば聞くほど、知れば知るほど、「同じアメリカ人として、いや、同じ人間として、日系人たちの歴史を学ばなければならない」という強い思いに駆られたネーハンさんは、日系人史の講義に出席することにした。
「そこで学んだことはまたしても驚きの連続だった。収容所についてはもちろん、ヨーロッパに派遣された442部隊のことにも驚かされた。引き込まれるように、日系アメリカ人の歴史を吸収していったんだ」
しかし、ネーハンさんは自分自身が知識をつけて終わることで満足しなかった。自分だけでなく、もっと多くの人が知るべきだと思ったネーハンさんは、全米日系人博物館にボランティアを名乗り出た。
「私のように、日系とは何の関係もない白人が受け入れられるかどうか、正直、自信がなかった。ところが、当時、ボランティアを担当していたリリー・オオバさんは『どうぞ、大歓迎です』と言って温かく受け入れてくれた。以来,14年以上、ずっとここに通っている」
最初の仕事は、1995年の特別展示「ファイティング・フォー・トゥモロー(海外戦線に従軍した日系アメリカ人兵士に関する展示)」のギャラリーガ イドだった。来館者に、どこに何があるかを伝えるのが彼の役割だった。「自分自身が関心を持って飛び込んだ環境だったから、どんな小さな仕事でも楽しく感 じられた」とネーハンさん。
さらに創造的な仕事がしたいと希望したネーハンさんは、日系人兵士の記録をできるだけ事実に近づける作業に着手した。日系人兵士と縁のある来場者た ちは、展示を見た後に、兵士の名前、階級、出身地、従軍していた期間などが事実と異なる場合に修正箇所をリストに残していた。彼はこのリストを資料として 活用した。
「もちろん、元の資料を変更するわけにはいかないので、『来場者によるとこういう説もある』と言うように注釈を付けていった。それに何カ月も取り組 んだ。もちろん、データが膨大ということもあったけれど、タイピングができないので、根気よくキーを探したせいもある。なぜ、そこまでしてやったか?やは り、日系人兵士への敬意の気持ちから、できるだけ事実に近い記録を残したいと思ったから、それに尽きる」