本国人が食べない「イタリア風ソーセージ」
「うちのモルタデーラ(ボローニャソーセージ)を本国のイタリア人は食べないんだ」。筋金入りのイタリア系ブラジル人マリオ・ベネデッチ社長(当時56歳、三世)を2010年に取材した時、そう嘆いていたのが強く印象に残った。
なにが「筋金入り」かといえば、三世にもかかわらず家庭内でイタリア語を使い、子供(四世)の代までペラペラで、本国との二重国籍にしていることだ。そのこだわりの理由は、経営するブラジル最大手の精肉加工業「CERATTI」社が、“イタリア伝統の味” を売りにしていることと関係があるだろう。
ベネデッチ社長の祖父ジョバンニ・セラッチは、第一次大戦で荒廃してファシズムが台頭しつつあった祖国を1921年に離れて、新大陸に夢を抱いてやってきた。
昔の名作アニメに、アルゼンチンに出稼ぎにいったまま行方不明になった母親を、13歳の少年マルコが探す『母をたずねて三千里』というのがあった。世界でイタリア系子孫が最も多い都市は米国ニューヨークといわれるが、2番目がアルゼンチンのブエノス・アイレス、次がサンパウロだ。ベネデッチ社長の祖父が渡ってきた時代は、ほぼマルコ少年のような時代だった。
1929年にジーナと結婚したのを機に、同胞向けの小さな精肉店を家族ではじめたのが、同社の起源だ。当時のサンパウロ市はなんと人口の6人に1人がイタリア移民という時代で、同胞に故郷の味を提供した。ジョバンニの生まれ故郷イタリア北部カステルマッサは、美食の都ボローニャの隣町で、モルタデーラの本場だった。
しかし、ジョバンニは当地風にひと工夫を加えた。イタリアでは100%豚肉だが、当地では牛肉が安くて一般的なので牛豚半々にし、ブラジル人にも広まるようにニンニク、塩、胡椒を増量してブラジル風の味を作り上げた。おかげで当地では大成功し、どんどん規模を拡大した。
37年間(取材当時)も同社で働く生き字引、ジョゼ・ジャネルシオ・デ・リマさんによれば「その試行錯誤の結果、イタリア人からはフォルチ(強烈)すぎると敬遠されるようになった」という。つまり、イタリア人が食べないブラジル風 “ボローニャソーセージ” になってしまった。
ベネデッチ社長は祖父の国とブラジルを比較し、「イタリアの神髄は美食、快楽、美術だが、ブラジルは混淆文化であることが特徴」と特徴づけ、その上で「だから私は日本の考え方を持ち込んだ」とさらに応用したことを強調する。
これはすでに、ある意味、ブラジル料理なのだろう。移民と共に “味” も移住するのだ。
沖縄移民が持ち込んだSOBA
「移民が持ち込んで現地化させてブラジルに広がった料理」に、アラブ系移民が持ちこんだエスフィハがある。ミニピザのような生地に牛挽肉をしいてオーブンで焼いた料理で、ブラジル中の軽食店の必須メニューとなっている。でも、本来は砂漠の民の食べ物であり、羊肉がオリジナルだ。
実は同じ現象は日本食にも起きている。沖縄系子孫が多い中西部マット・グロッソ・ド・スル州都カンポ・グランデ市では、06年に「沖縄ソバ」を市文化財に指定するほど一般化した。
元々は沖縄移民が多く働いていたフェイラ(青空市場)で、同胞向けのまかない食として出していた。市場にはブラジル人も多く働いていたので、沖縄移民は「ハシを使う」ことや「ススって音を出す」習慣を見られるのを嫌って、カーテンみたいな幕を引いて、その奥で食べるようにしていた。
ところが「隠している」ことで、ブラジル人には「日本人だけで美味いものを食べてる」ように見えたらしく、「俺にも食べさせろ」と次々に言い出す者が出てきて、いつの間にか一般人向けの沖縄ソバ屋の屋台ができ、段々増えてきたという。それを「Sobaria」(ソバ専門店)という。ポルトガルにはないブラジル独自の単語だ。
要は沖縄ソバの専門店のことで、同州都にある中央市場だけで28店ものソバ店がならぶというから壮観だ。2007年にはそれがサンパウロ市に進出した。メニューには「カンボ・グランデ料理」との説明が書かれており、「日本食」という言葉すらない。
その適応過程で、味や中身にも変化が生まれた。本来の沖縄ソバはさっぱりカツオ出汁で、麺の上に申し訳程度に豚肉がのっているものが一般的だという。
だが、ブラジルでは豚骨で出汁をとったり、牛肉の煮込みがたっぷり乗っかっていたりする。トッピング感覚で麺の上にのせる牛肉の部位が選べる高級店まである。
8月14日にカンポ・グランデでは盛大に沖縄県人入植100周年祭が開催され、母県(註=ブラジルでは出身県のことを、母国に倣って「母県」と表現する)から来た慶祝団の参加者の中には、それを食べて「沖縄のソバとは別物」「沖縄とは別の方向に向かっている」などと、回りくどい表現でけなす者が多かったという。
要は「沖縄とは味が違う」とか「うまくない」ということらしい。
日本にない日系食レストランTemakeria
同じ様に、ブラジルには日本にはない「日本食」が流行っている。たとえばTemaki(手巻き)専門店の「Temakeria」がどんどん増えており、すでに「日系食」と言っていい状態だ。
いろんな手巻きがあるが、とにかくコッテリしているものが多い。日本の手巻きは一般にあっさりしているが、当地では高カロリーのジャンクフード化している。
たとえば、サンパウロ市一の繁華街ビラ・オリンピアにある某Temakeriaのメニューには「Nachomaki(ナッチョ巻き)」というのがある。サーモンの切り身、にメキシコ料理nachos(トウモロコシ粉でできたスナック菓子状のものにピリッとしたタレをかけたもの)、タバスコが入っており、和風の枠に、ブラジル的発想でメキシコ料理を混ぜ込んだ多国籍ぶりを見せる。
その他、「Macadamia(マカダミア巻き)」にはサーモンの切り身、マカダミアナッツ、マヨネーズ、ごま)が入っているし、「Camarao Tailandes(タイ海老巻き)」には焼き海老、甘辛ソース、胡椒、ごま油、味の素、ピーナッツなど入っている。
一つ15レアル前後(約700円)するから、けっして安くない。大衆食堂なら一食食べられる値段だ。それでも食べる人は多いから、ブラジル人には愛されている “日系食” だ。
日本食ブームの広がり
ブラジルでは70年代まで、日本食は日系社会の中だけで食べられていた特殊な民族食だった。ところが欧米で日本食が普及したことから、80年代から新しい物好きの若者や、日本文化好きな一部の好事家が日本食レストランに興味半分で足を運ぶようになり、90年前後から一躍ブームになった。
もともとブラジルには生魚を食べる習慣はなく、最初に刺身や寿司を口にしたブラジル人は恐る恐るだった。日本食ブームと共に、東洋街リベルダーデ区にしかなかった日本食レストランは、南部の高級住宅街やビジネス街、繁華街にどんどん増え、今では寿司、刺身、天ぷらを扱うレストランはサンパウロ市内だけで600店もあるという。
日本食ブームと共にハシを使うブラジル人も増えた。10年ほど前、東洋街を歩いていたら、乞食同然の路上生活者が、ハシでヤキソバを食べていたのを見て驚いた。世界広しといえど、西洋文化圏で路上生活者がハシでヤキソバを食べている姿を見るのはごく稀だろう。
移民によって故郷の味がグローバル食に
セラッチ社のモルタデーラの話にもどるが、実はブラジル以外で唯一これを生産しているのは、静岡県浜松市だと聞き、驚いた。本社から秘伝のエキスを送って2001年から特許生産している。世界の中から浜松が選ばれた理由は二つある。
一つは、ベネデッチ社長が大の日本びいきなことだ。1992年以来8回も訪日して品質管理を学び、2004年に新設した最新鋭工場には「Omamori(お守り)」と日本語の名付け、「外はブラジルだが扉を開けたら日本式」と本人が明言するほど日本的なものを目指している。
二つ目は、同社製モルタデーラを愛する在日就労する日系ブラジル人が多く居住することだ。
イタリア移民と共に大西洋を越えてブラジルに広まった “故郷の味” が、今度は日系人にバトンタッチされて太平洋を渡った。もし日本でデカセギだけでなく、日本人にも広まるなら、そこには「日本の風味」も加わっているに違いない。
“故郷の味“ はもともと地域限定のはずだが、移民という存在が加わることで地球中を移動するようになった。移民の持ち込んだ味には、どこか「グローバル食」の風味が利いている。