イリノイ州はIllinoisと表記するが、これをそのままローマ字的に読んだのか、「百年史」では、第十八章「イリノイス州」と表記している。英語をカタカナに表わすのに決まった法則があるわけではなく、また、英語を漢字に置き換える仕方も決まりがあるわけではないようなので、百年史でも今日では使われない表記がある。イリノイ州の代表的な都市はシカゴだが、これは市我古と表記されることがある。
さて、「百年史」イリノイ州の章では、シカゴ市やその近郊の日本人、日系人の足跡をまとめている。
シカゴ万博からの先駆者たち
まず、「先駆者たち」について。シカゴで万国博覧会が開かれたのが1893年。これを目当てに一旗揚げようとして乗り込んだ日本人がいた。百年史ではシカゴ万博から1904年のセントルイス万博までの期間を先駆者時代というべきだろう、と言っている。
この先駆者としてまず紹介されているのが西亀之助。
「彼はそれまで桑港で紀の国屋旅館を経営、手広く日本移民の世話をしていた。シカゴ博覧会でひと儲けしようと乗込み、場内に売店を設け、竹細工や日本雑貨品を販売し、はじめて日本品を紹介した功労者であった。博覧会キングと呼ばれた櫛引弓人も在シカゴ万博に日本茶園を出し好評を博したことがあった」
このほか、前山千太郎(和歌山県人)は繁華街に美術土産物店を開いて大成功。山崎安馬(高知県人)は、セントルイス万博で十仙レストランを開いて大当たり、インディアナポリスなどで洋食店を開いてその後シカゴに乗り込み洋食店を各地に展開した。
大竹丑太郎(山形県人)は1916年にギフトショップを開店し、以来シカゴに在住している。重田欣二はカメラマンで、1920年に渡米して最初はハリウッドで映画俳優相手に仕事をしていたが、白人同業者から排斥されシカゴへ移った。その後一流写真館に入り、主任カメラマンにまでなった。「米国写真協会は世界でたった五人の最高名誉会員に彼を選んだ」という。
1920年にはイリノイ州の日系人は472人になり、27年には「日本人協会」が組織された。しかし都市の規模に比べれば、日本人の数は少なくて400、500人に過ぎず、その半数は日本の商社からの出張による人達だった。また、1935年には山崎安馬らにより「シカゴ日本人共済会」が組織された。
戦争と転住で人口増加
戦争がはじまると、翌42年から少数の日系人が西海岸からシカゴに転住してきた。シカゴでは、戦時転住局シカゴ支部が協力して日本人のシカゴ転住を奨励した。こうして転住してきた日本人は、「1945年1月には2万3000人と目されるに至った」という。
「1945年1月12日に太平洋沿岸立退令が解除となり、それを機としてどっと少なからざる数が、当地から沿岸各地の古巣か、あるいは南加州の如き新発展地へ潮の如く帰還したので、1950年現在におけるシカゴ市の日系人は二万前後に減ったのであった」
全体としては、戦争による転住をきっかけとしてシカゴに定住してくる日本人、日系人は多く、彼らがその後のシカゴの日系人コミュニティをつくっていく。だが、転住という大きな人口移動のなかで問題が起きていたことを百年史は挙げている。
そのひとつは日系の私生児の問題だった。
「1947年日系私生児で厚生局の手を煩わさねばならぬものが50以上もあった」。これは日本人に限ったことではないとしながらも、日本人は立退きにつぐ転住という悲惨な経験や、戦争によって家族が破壊されたこともあって、「若き女性が単独に大都会の中で生活をつづけざるを得ない境遇の下において往々にして発生する事柄である」と、同情している。
もうひとつの問題は、高齢者の世話をどうするかということだった。
「言葉及び習慣等の相違から一般の養老院は日本人には適さず、日本人専門の養老院の設立が必要となった」
戦後は日系市民協会(JACL)シカゴ後援会が創立。また、シカゴ転住委員会が組織され、日本人のための就職や住居の紹介が行われた。このほか日系人のコミュニティーの活動も活発化する。邦人紙「シカゴ新報」が発刊され、同紙のもので「故国難民救済」運動がはじまる。1947年には友愛奉仕会が日本難民救済のための衣類の荷造りに各日系人団体が参加した。義捐金も1万3000ドルを超えた。
1948年にはシカゴ日系人商業会議所ができる。49年、シカゴ日本人共済会では、同会所有の日本人墓地を拡張し納骨堂が移転された。
1950年度のイリノイ州の日系人人口は1万1646人だったが、60年度の国勢調査では、1万4074人と増加した。その理由は「三世の出生と軍人花嫁によるものとみられるが、戦時転住から急減していたのが、今や定住に入ったとみられる」としている。
クリーニング業のキング
以上のように、シカゴには先駆者たちはいたものの多くは戦中・戦後に西海岸などから転住した人達だった。こうした人物について28ページにわたって紹介している。そのなかで、とくに紙幅を割いて紹介されているのが「日系洗染業キング」日高虎雄だ。
日高は、宮崎県北諸県郡高崎町出身で、1917年に19歳でサンフランシスコに渡る。ホームクリーニングの従業員となりその傍ら小学校から高校まで通う。その間、日本人青年団を組織して相撲、柔道、弁論部をつくる。相撲では日向灘の土俵名で全加州の日系社会に知られるようになった。
1924年に結婚し、加州デモスト市でクリーニングと洗濯業をはじめ順調に推移した。しかし戦争開始とともに事業は閉鎖、テキサス州のクリスタルシティの収容所などに抑留される。ここでも土俵をつくって相撲を広めた。
終戦2ヵ月前に5人の子供ら家族とともにシカゴに移住。所持金は400ドルだった。しばらくして友人から1500ドルを借りてクリーニング業を再開した。売り上げは1年後には約10倍にまで増加するほど成功、彼の事業手腕に理解を示した銀行からの融資を得て、その後事業を拡張、工場を建設し、店舗数も25点を数えるまでになった。
事業の一方で、シカゴ実業界を組織したり禅宗仏教界や相撲協会などの理事を歴任した。また、日本へもいくつかの寄付や慈善事業をしている。
「数年前、母国大水害の報に接するや水害見舞い相撲大会を催し、純益金550ドルを日本領事館を通じて送金した。氏は郷土を想う念も深く、戦争直後、母国の物資不足の折には、母校へ野球道具やバレーボール等を数組送ったり、鉛筆数千本を贈って激励したこともあった」
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)
* 次回は「東北中央部諸州の日系人」を紹介します。