下記に記すのはビル・中庄司の家族の経験と彼の両親や他の人たちから聞き知った事です。ビルはまだ61歳です。排斥が始まった時には、ビルはまだ生まれていませんでした。アラインの情報、井出さんの手紙、ビルの母親へのインタービューからの覚え書き、郡の75周年記念本から、興味深い詳細がわかりました。
ビルの父親、正次(ジョゼフ)・中庄司は1941年に山田千代子と結婚しました。戦争対策法により、政府からの最初の排斥命令が出された時、ブリティッシュ・コロンビアの海岸沿いの町で彼は木の伐採をし、彼女は女中をしていました。
家族の最初の移動は、バンクーバーのヘイスティングス・パークの「一時引き止めセンター (holding centre)」でした。ここには何千人もの人達が集められ、幾つかの内陸部の「避難センター (evacuation centres)」へ送られるのを待っていました。それがどういったものだったのか中庄司夫人はこう書いています。
新婚で結婚生活を始めたばかりの我々にはあまりたくさんの持ち物はありませんでしたが、身の回りのものだけを持ってやって来ました。他の日本人の中にはボート、家、ビジネスなど、沢山のものを失わなければならない人達がいました。女と子供はへースティングス・パークにとどまるよう強制されました。何処へジョーが送られていったのか分からず、私は彼の事を心配することだけで日が過ぎていきました。警備兵がいて、行きたいところには、パス無しではいけませんでした。その後、政府は男達を内陸部のスローカン・バリーやその他の地区へ家族用の家屋建設のために連れ出していた事をやっと探し当てました。待っている時間は長く、辛かったです。
一緒に持ち運んだもの以外、排斥された人達の財産や土地は公認受託者に手渡されました。安全に保管するという建前でした。百艘にも上る漁船やフレーザー・デルタの何エーカーにも上る一等地の農地が手渡されました。しかしこれらの多くは疑わしい手段で売却され、その収入は収容者の宿泊や食事代に使われたと言われています。
1942年の春、中庄司一家は再会しました。そしてスローカン・バレーの廃墟の町、レモン・クリークの収容所に移動しました。初めの収容者はテント暮らしでしたが、中庄司家は木造の家に入る事が出来ました。ビルの父親が建てるのを手伝った家でした。
戦争が終わるまで、一家はここで過ごしました。戦争が終わると、収容所の人達には二つの選択肢が与えられました。日本へ「帰る」(多くの人達はカナダ生まれか、カナダ国民でした)か、カナダ東部(海岸の家に帰ることは許されませんでした。)へ移動するかでした。
カナダに残る事を決めた中庄司家は、また移動を始めました。今度はオンタリオのマラソンというスペリアル湖の西のネイズ(前のドイツ人捕虜収容所)の強制収容センターへでした。
この頃になると、情勢は変わり、ロッキー山脈の東にいる限り、どこで働こうがどこに住もうが自由な選択が出来るようになりました。森林業での経験を持つビルの父親は、当然木こりの仕事を探しました。オンタリオのピジョン・リバーの近くでしばらく働く事になるのですが、家族も連れて行ったのかどうかは定かではありません。
しかし、大きな転機が訪れました。カプシカシングでパルプ工場を稼動していたスプルース・フォールズ・パワー・アンド・ペイパー会社 (Spruce Falls Power and Paper Company) の求人担当者が森林労働者を探しに1946年の秋、ネイズの収容所にやって来たのです。
ビルの母親はこう話しています。
落ち着く場所があれば何処にでも喜んで行きたいと思いました。カプシカシングの事を聞いた事があったか、なかったなど問題ではありませんでした。我々(日系カナダ人)は、皆一緒に行く事になりました。
家族の何世帯かはハーストのホテルに一時的に泊まり、他の世帯は村から南へ十マイル離れたオパサティカ川にあるスプルース・フォールズ・キャンプ32に一年近く滞在しました。どちらの土地も家族には適した場所ではありませんでした。会社の森林労働者が住んでいたキャンプ32の家は川岸に建つコールタールを塗った紙で出来た高床式の小屋でしかなかったのです。そして春が来るたびに氾濫しました。
会社はキャンプ32にも学校を建て、ミチ・井出さんを先生に迎えました。更にはオパスティカの南に新移住者用の居住地区を建てました。そこは1920年代ケベック から来たカソリック教会の家族が定住した土地でした。
このように1947年、日系カナダ人のクロー・クリークでの生活が始まりました。二家族毎が住める11個の家と、井出先生とフォースター先生による小学校が活動を始めました。フォースターさんはアングリカン教会の宣教師でレモン・クリークからグループを連れてきました。オンタリオ州教育課程にそって英語で教えました。近くにはカソリック・スクールやイザベル氏の経営する小さな雑貨屋がありました。
二つの井戸、旧式トイレ、オイルと薪のストーブそしてコールマンランプが使われていました。キャンプには二つの電話があり、その一つが中庄司家にありました。大きな遊び場や野球場もありました。ハーストのレネー・フォンテイン議員はクロー・クリークからの日系カナダ人の少年たちと野球大会をしたことを覚えていました。
ここでの生活は(そこの住人がブリティッス・コロンビアの家から強制的に追い出されてきたという事実を除けば)沢山の良い事だらけでした。男達には安定した仕事があり、そこそこの給料をもらうことができました。家族はいささか窮屈な住まいであっても、安全にして温かく、子供達は野球や釣りと素晴らしいリクリエーションの機会に恵まれました。地元のフランス語を話す人たちとの関係は彼等にとって思いがけない楽しい驚きでもありました。地元の子供達と日系カナダ人生徒との間には沢山の友好関係が生まれました。クロー・クリーク学校に通った地元の子供達は日系人の子供達が英語を学ぶのを手伝いました。
時が経ち、家族がこの地を離れ始めました。ジョーと千代子はカプシカシングへ移り、7人の子供を育てました。しばらくは地元に残る家族もいましたが、オンタリオの南でのチャンスを求めて出て行く家族もいれば、ブリティッシュ・コロンビアに戻る家族もいました。ビルの両親もブリティッシュ・コロンビアのケローナへ、そうです、あの無理やり退去させられた州へほぼ半世紀ぶりに、帰っていきました。その後、クロー・クリークにはヨーロッパからの家族が数世帯住み始めました。日系人達と同様、スプルース・フォールズで仕事を見つけました。オパサティカの本の一枚の写真にはアライン・ギンドンの父親がヨーロッパからの新移住者にスエードののこぎりの研ぎ方を教えているのが映っています。
居住地は1957年まで続きました。最後の住人はカプシカシングに移り住んでいきました。スプルース・フォールズは建物を撤去しましたが、まだ数棟はオパスティカやカプスシンには残っているようです。しかしそれらの建物もその後改修されて、どの建物がどれだったのか判断が出来ないほどの変わりようだそうです。
ジョンが電話帳で調べた結果から分かったように、ビル自身もこの地を離れた最後の移住者だと信じています。彼の息子グレンはフランス語圏の人と結婚し、ティミンズに住んでいます。彼の母親は86歳でケローナで健在です。
この物語の初めに、クロー・クリークで我々は1952年に電話を借りたと書いていますが、更に中庄司家に電話があったことも書きました。家の外で水のバケツを担いでいた少年に会ったことも書きました。読者の皆さんのご想像どうり、この少年こそビル・中庄司だったのです。物語が展開するに従って、クロー・クリーク居住地のあの夜に繋がっていた半世紀も前の時間を3人が共有していたことがだんだんと解き明かされていくのはまさに大きなスリルでした。
最後に、我々は居住地の人々の生活のなかに存在した地元の人達との前向きな人間関係を前に記述しました。そしてこの流れが今日現在にも受け継がれていることを目の当たりにし、喜びを感じています。ノーザン・テレフォーン社での34年にわたって勤務するビルは、地域社会の全員を知っているように見えました。お互いに尊敬しあう事、親愛の情がはっきりと見て取れました。
彼等の家族が世界第二次大戦中、大戦後も、不幸かつ不当に受けた人権無視に関して、我々との会話の中では、一言の怒りも苦言も口にしなかった事は不思議以外の何物でもなく、ただただ賛美に値するものです。しかし彼等もこのようなことが決してこの国で再び起こってはいけないという意見には賛同してくれています。
この調査で我々に手を差し伸べてくれた皆さんに多くの感謝を申し上げます。そして、オパサティカ郡75周年記念本のイラストレーションの使用を許可いただきましたことに深く感謝申し上げます。