海渡り「若松コロニー」形成、日米両国にいる末裔、先祖への思い
小高い丘の上にある小さな墓―。このカリフォルニアの大地に眠るのは、今から150年前、日本から最初にアメリカ本土にやってきた移民団のひとりで、アメリカ本土で最初に亡くなった「日系移民の女の子」の墓だ。彼女の名は伊藤おけい(以下、おけい)。
1869年(明治2年)、夢と希望を胸に会津若松(福島県)からやってきた移民団22人はカリフォルニアにアメリカ本土初の日本人入植地「若松コロニー」を形成した。彼らは日本からアメリカ本土に渡った最初の入植者だ。プロイセン人の武器商人ヘンリー・シュネル率いるこの移民団は、戊辰戦争に破れた会津藩の侍などで形成され、カリフォルニアの地で茶と絹の栽培を試みる。しかしわずか2年で若松コロニーは崩壊。その後、彼らは日米で別々の人生を歩むこととなる。
2019年はこの最初の日系移民がアメリカ本土に入植してから150周年を迎える。そして今、日米両国にいる彼らの末裔が羅府新報に先祖への思いを語ってくれた。
150年前にアメリカ本土へと海を渡った先駆者たちの勇気と開拓者精神に思いを馳せ、この記念すべき年に彼らの歴史をここに振り返ってみたいと思う。
カリフォルニア州北部エルドラド郡ゴールド・ヒル―。1849年にジェームズ・マーシャルがアメリカン・リバーのほとりで金を発見しゴールドラッシュの発端となった場所(現在のマーシャル・ゴールド・ディスカバリー州立歴史公園)からほど近い、こののどかな田園風景が広がる土地に日本からの移民団はやってきた。
彼ら以前にもアメリカ本土に足を踏み入れた日本人はいる。1841年、漁に出たまま遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、そのままアメリカ本土に渡ったジョン・万次郎(中浜万次郎)や、1851年に航海中、船が難破し、アメリカの商船に助けられそのままアメリカ本土に渡り日本人として初めてアメリカ市民権を取得した浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)などだ。しかし本格的な入植を目的にアメリカ本土に渡ったのは彼らが初めてだ。
一行は会津若松からの移民団。かつての会津藩の侍や大工、農家とその家族などで構成され、当時の時代背景から、さまざまな思いを胸に海を渡ってきたのだろうと想像する。
彼らが海を渡る前年の68年には戊辰戦争が勃発。旧幕府軍と新政府軍が新政権を巡り戦ったこの戦争で、旧幕府軍だった会津藩は敗北。この戦いで登場した白虎隊の悲劇は今なお語り継がれている。
移民団がアメリカに渡ったのはその翌年。このような時代背景の中、一行は船に乗り込み新たな地を目指したのだった。
日本人一行は「自由人」、威厳に満ち、地元紙も歓迎

こうして移民団の先発隊がサンフランシスコ港に到着したのは1869年(明治2年)5月20日。その模様は、同年5月27日付の当時のサンフランシスコの地元紙「デイリー・アルタ・カリフォルニア」やサクラメント近郊の地元紙「メリーズビル・デイリー・アピール」の紙面でも報じられている。
記事によると、日本北部に10年住んでいたプロイセン人のヘンリー・シュネル率いる日本人3家族がサンフランシスコ港に到着し、これから茶と絹の生産を始める計画であることが記されている。そして米国一の絹を生産するため、日本から桑の木5万本をはじめ、600万粒の茶の木の種、植物ろうの木500本、竹などを持ち込み、まもなくほかの家族も到着する予定だと書かれている。
興味深いのは記者の目に写った日本人一行の印象が記事の中でつづられていることだ。
恐らくこの記事を書いた記者にとって人生で初めて日本人と対面した瞬間だったことだろう。記事では日本人一行は「農奴ではなく自由人」とあり、「大変教養があり洗練された紳士たちで、その家族も高貴である」と褒めたたえている。
また「一行はアメリカの法律を完璧に理解し、それに従うだろう」とし、「米国の資源を発展させるための技術と産業を持ち込んでくれた」と書かれている。
当時はゴールドラッシュの波にのり、中国から大量の移民が押し寄せ、労働力競争から彼らに対する差別があったような時代。そんな中、地元紙は一行を威厳に満ちた人々であると紹介し、到着を歓迎していたのである。
妻は日本人女性、和名も。シュネルとは一体何者?
移民団を率いたシュネルとは一体何者だったのだろうか。記事ではシュネルは日本語を流暢に話すプロイセン人と書かれている。
シュネルがいつ日本にやってきたのか正確な時期は不明だが、プロイセン領事館の翻訳書記官を務めた後、ヨーロッパの武器を販売する武器商人となった。会津藩主の松平容保はシュネルの顧客の1人で、軍事顧問として重用。シュネルは松平の家臣たちに武器の使用方法を教えた。松平からは「大将」の位のほか和名「平松武兵衛」を授かり、武士の娘「じょう」と結婚することを許された。
しかし、戊辰戦争で会津藩は敗北。シュネルは松平にカリフォルニアに新天地を開拓することを提案。戊辰戦争に敗れ、領地を没収された松平はカリフォルニアに会津の未来を見出しシュネルに託したのかもしれない。こうして1869年4月、松平の支援のもと、妻と幼い娘、そして子守りのおけい(当時17歳)と移民団を引き連れ渡米。新天地を目指したのだった。
移民団、意気揚々と入植、茶と絹の栽培を計画
それから一行は1869年6月8日にはゴールド・ヒルに到着。デイリー・アルタ・カリフォルニア紙はその後も一行の動向を報じている。同年6月16日付紙面にはシュネルがゴールド・ヒルにあるグレイナー家から「グレイナー農場」を購入したとある。この場所が若松コロニーだ。現在も跡地に残る家は54年にグレイナー家のチャールズ・グレイナー氏によって建てられたものだ。
記事ではシュネルが購入した土地は絹と茶の栽培に適し、これから敷地内に各家族の家を建て、桑と茶の木をそれぞれの家族に割り当て、栽培する予定であることが紹介されている。
計画によると、各家族が蚕の飼育や、繭の手入れをし、その質と生産量で給料を受け取り、生産された生糸は輸出もしくは国内メーカーに販売される。茶も同様に各家族が茶の葉を栽培し、茶葉を摘み、工場に送付するまでの工程を行い賃金が支払われるといったものだった。
同年10月24日付の同紙には新たに男女13人が到着したと報じられており、若松コロニーの入植者は合計22人になった。
わずか2年で崩壊。茶と桑の木は枯れ全滅
しかし順風満帆な日々はそう長くは続かなかった。その後、若松コロニーをめぐる状況は一変する。
当時カリフォルニアはゴールドラッシュ全盛期。若松コロニーがあった場所の近郊では次々と金が発見され、採掘が行われていた。金の採掘には水が不可欠。その金の採掘現場から流れ出た汚染物質により、若松コロニーの桑や茶の木は汚染され、水不足などの要因も重なり枯れてしまったのだ。
1871年8月6日付のデイリー・アルタ・カリフォルニア紙には、若松コロニーの崩壊が報じられる。記事によるとこの土地の赤みがかった土は、通常茶の栽培に適しているとされ、日本から持ち込んだ茶の木は順調に成長しているかに思われた。しかし、金山から流れ出た鉄や硫黄などの成分を含んだ水に茶や桑の木は汚染され、次第に枯れはじめ全滅。シュネルの計画は失敗に終わったと伝えている。また月給4ドルという給料も入植者たちの生活を圧迫。異国で家族を養う苦難も重なり、こうした状況下から若松コロニーは崩壊したと経緯がつづられている。
シュネル一家は金策のため日本に行くと言い残し若松コロニーを去るが、二度と戻ってくることはなかった。その後の行方は分かっておらず、本当に日本に行ったのかさえも分かっていない。日本に戻って殺されたという説もある。
続く >>
*本稿は、「羅府新報」(2019年1月1日)からの転載です。