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バンクーバー朝日:殿堂メダリストの家族探索

バンクーバー朝日の発起人、児玉基治

バンクーバーのニッポン野球クラブ、1910年。児玉基治は写真の後列真ん中。

このサイトでもいくつか紹介しているように、多くのバンクーバー朝日の選手たちは、殿堂入りしていたにもかかわらず、本人または家族の消息が分からずその功績が讃えられていなかった。児玉基治は、1914年発足のバンクーバー朝日チームの発起人の一人であり、その4年前に結成されたバンクーバー“ニッポン”チームの発起人でもあった。彼もまた、BC州スポーツ殿堂入りメダルを受け取っていない関係者のひとりであった。

児玉基治は、1877年広島で生まれた。1898年、21歳の時に米国シアトル・タコマに渡航し、その後、バンクーバーに移り、日加用達会社に首脳陣として勤務、加奈陀太平洋鉄道や加奈陀北部鉄道に対する人夫供給にも従事した。さらに調べてみると、彼は1918年に日本へ帰国し、寿屋洋酒店(現在のサントリーの前身)に入社をしていたことが分かった。

サントリーの社史によれば、国際派の彼は創業者の鳥井信治郎の秘書及びマネジャ-として活躍をし、1923年、日本初の国産ウイスキー山崎工場建設にも関わった。サントリー退職後も、生涯独身だった彼は、以前と同様に、兵庫県の雲雀丘にあった鳥井信治郎の邸宅に住み続けることを許された。

退職後の児玉基治

児玉の家族についてサントリーに直接問い合わせようかとも思ったが、会社側には個人のプライバシー保護方針があるので、何の縁もない私は直接問い合わせても情報を得ることは難しいと考え、私の友人で元サントリー社員だったジミー谷山氏を通じて社内の関連部署に問い合わせをした。その結果、基治の母方の従妹、吉村智恵氏の娘、熊中和子氏が大阪にいることが判明した。

(前列左から)吉村智恵氏とご主人、熊中和子氏の息子さん、児玉基治。(後列)熊中和子氏とその従弟。 

熊中和子氏によれば、基治の父方の親戚とは長年交流がないという。実際、基治も亡くなるまで、和子氏の母が最も親しくしていた親戚だったようで、父方よりも、母方の親戚と親しくしていたようだ。基治は1974年、98歳で亡くなったが、葬儀では熊中和子氏のご主人、熊中祐三氏が喪主をつとめたそうだ。

上記の状況に鑑み、BC州スポーツ殿堂は、児玉には遺産を相続すべき子供もいなかったこともあり、熊中和子氏が殿堂メダルを引き取るに相応しいとの決定に至り、小生を通し、メダルを手渡した。 

カナダ日系人史に詳しい河原教授に依頼し、立命館大学の貴賓室をお借りしての殿堂メダル引き渡し式にて。左から、筆者、熊中和子氏、熊中和子氏の娘の吉村祐子氏。

余談ではあるが、後に熊中氏と娘の吉村祐子氏の二人は、殿堂入り記念メダルを持参し、サントリーの鳥井信吾副会長を訪問した。鳥井信吾副会長は、祖父鳥井信治郎の邸宅に住んでいた児玉を懐かしく覚えているそうだ。

サントリーの鳥井信吾副会長を訪問した熊中和子氏と娘の吉村祐子氏。

また、小説家の伊集院静氏による鳥井信治郎の生涯を描いた「琥珀の夢」で、児玉は重要な番頭役として登場している。その小説を基にした同じタイトルのテレビドラマにも、児玉基治は登場している。

このように、児玉基治が小説やテレビドラマに描かれているのは感慨深いものがある。

 

© 2021 Yobun Shima

baseball Canada issei Japanese Canadian Motoji Kodama Vancouver Asahi

このシリーズについて

カナダの伝説の日系人野球チーム、バンクーバー朝日は、2003年にカナダ野球殿堂入り、2005年にBC州スポーツ殿堂入りを果たした。しかし、1941年に戦争が勃発しチームが解散してから既に60数年たっていたため、多くの選手またはその家族と連絡が取れず、殿堂記念メダルの多くを引き渡すことができないままでいた。

バンクーバー朝日の最初の選手だったライターの叔父、嶋正一もその一人だった。退職後、偶然それを知った嶋氏は、バンクーバー朝日のことだけでなく、ブリティッシュコロンビア州の歴史など様々な資料に目を通した。その後、未渡し殿堂メダリストであるバンクーバー朝日の元選手やその家族らを探し始めた。このシリーズでは、今までの調査の過程だけでなく、元選手やその家族について紹介する。