福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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被爆者である母の経験を小説に — キャサリン・バーキンショーさん

娘の病気と母の告白 「ラスト・チェリー・ブロッサム」という小説がある。戦時下の広島を舞台に、多感な少女ゆりこと優しい父、ゆりこが距離を感じる同居の叔母が主要な登場人物となる物語だ。小説の後半では、広島の街を焼土に変えた8月6日、さらにその後の彼らの運命が描かれる。原爆に至るまでの前半は戦時中の日本人の質素だけれど丁寧な暮らしぶりが細かい筆致で描かれている。私の頭の中では、ゆりこの家族のそれぞれの生き生きとした人物像と彼らの感情の機微、日々のやりとりが映像として展開した。それはまるで私が好きな小津安二郎の映画を見ているようだった。しかし、そこで、あの残酷な原爆の日が訪れる。それまでの家族で共に過ごした、ささやかな幸せで穏やかな日常が一瞬で壊され、彼らは深い悲しみと肉体的な苦しみを背負わされることになるのだ。 この小説を書いたのが、キャサリン・バーキンショーという名前のアメリカ人女性と聞いて驚いた。どうやって戦時中の広島の様子をここまで鮮やかに再現できたのだろうか?彼女の母親、広島出身のとしこさんが主人公ゆりこのモデルということが、その答えだ。 私は、東海岸在住のキャサリンさんにオンラインで取材させてもらうという機会を得て、小説完成までの経緯とアメリカ人を父に日本人を母に持つ、日系2世としての彼女のアイデンティーについて聞いた。彼女の両親は1959年に日本で出会い、結婚し、…

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米国で生きる日本人の選択

アメリカ市民として日本で生活する大内二三夫さん

米生活50年で再び日本へ 25歳でアメリカに渡った大内二三夫さんは、フロリダ大学の大学院で博士号取得後に化学会社のデュポンに入社。その後、ワシントン大学で長年教鞭を執った物質材料工学の専門家だ。2022年6月に材料工学科教授の職を最後に、同学を退職した大内さんが、次に住む場所として選んだのが長野県松本市だった。 「アメリカでは50年近く暮らし、楽しい思いもしたし、達成感も得られました。私は25年を一つの単位としてとらえています。最初の25年は日本で生活し、次の50年はアメリカ、さて次の25年をどうしようと考えた時に再び日本で暮らしてみたいと思いました。そして、できれば全く違ったことをやってみたいという思いに駆られ、バイオリンの製作を始めることにしました。 この決断に至ったのはコロナ禍が大きく関係しています。人との交流が絶たれていた間に、自分で再び新しい挑戦がしたいと考えました。私の家族には音楽家が多く、その中で私一人がサイエンティストなのです。ワイフと娘はピアニストで、娘の旦那も作曲家・バイオリニストで、孫はバイオリンをやっています。それで、私は孫娘のためにいつかバイオリンを作ってあげたいと思ったのです。バイオリン作りの経験は全くありません(笑)」。 日本に移住し、新しくバイオリン作りを退職後の人生を捧げたいと妻のすみよさんに言うと、「それでは(日本に)行きましょう」とす…

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戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第3回 再び満州の地へ

祖父の足跡を訪ねて 母と祖母の満州からの引き揚げから40年以上が経過した、今から34年前の1988年、私はかねてから温めていた計画を実行に移した。それは、母と祖母、そして私の三代で旧満州の地を訪ねるというものだった。私はその頃、東京の出版社に勤務していた。そして、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画、満州の傀儡皇帝、溥儀の一生を描いた『ラストエンペラー』を見て、幼い頃から母に聞いていた満州のイメージを具体的に描けるようになっていた。 祖母のカヨは当時、70歳。祖母と母の念願だった、スイカの駅で別れた後に捕虜として亡くなった祖父の最期の地を訪れるならその時しかないように思えた。ただし、まだ天安門事件前の中国では自由旅行は許されていなかった。中国政府が派遣する専門ガイドの同行が必須だったため、費用もかなり高かったと記憶しているが、それでも自由化を待っていたら祖母のタイミングを逃すことになるかもしれない。彼女に気力、体力が残っている間に決行するしかない。 私は中国政府の旅行代理店に、北京、ハルビン、牡丹江を1週間で巡るツアーの旅程作成を依頼し、88年のゴールデンウィークの連休に、大分から上京した母と祖母と共に中国へと旅立った。牡丹江は祖父が亡くなったソ連軍収容所があった街だ。ハルビンは牡丹江に行くための経由地だった。 母の故郷スイカへ 北京空港では、20代に見える若い女性が…

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戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第2回 戦後の引き揚げ

終戦、そして新京へ 恵美子の父親の進が戦地に赴いたのは、昭和20年の5月だった。「父は目が悪かったせいで、召集されたのも最後の頃、しかも兵隊としての等級も一番下だった。満州での現地召集となり、私は母やその頃まだ幼かった弟の正憲や妹の史子とスイカの駅で父を見送った。父は列車のタラップから身を乗り出すようにして、姿が見えなくなるまで手を振っていた」。それが父との最後の別れになるとは、その時はまだ知る由もなかった。 父を戦地に見送った3カ月後、現地の日本人は集まって天皇陛下の玉音放送を聞き、日本の敗戦を知った。もう満州は日本が支配する土地ではない、身の安全は保証されなくなると、一斉に日本人の引き揚げが始まった。しかし、その時点ですでに家の中のあらゆる物が中国人によって持ち去られてしまった。母、カヨは家の中に残った物を持てるだけ持ち、正憲の手を引き、恵美子はまだ1歳になったばかりの史子をおんぶしてスイカを離れた。 そして、4人は列車で南下し、新京に辿り着いた。そこで一軒の家に5家族で暮らし、昭和20年から21年までの一冬を凌いだ。 「8畳のひと部屋に3家族、6畳のひと部屋に2家族が住んだ。ある時はソ連兵がやってきて、時計などの金目のものを持ち去った。腹巻きにお札を巻いていた私は襲われるのではないかと恐ろしくて、トイレに駆け込んで隠れた。どうやって食べ物を確保したのか?どこからか母…

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戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第1回 満州での生活

「残留孤児だったかもしれない」 私が高校生の時、中国残留孤児と呼ばれる人々が来日し、記者会見を開いた。彼らは日本のどこかで暮らしているかもしれない親に対して、中国語で涙ながらに「会いたい」と呼びかけていた。日本語を理解しない人民服姿の彼らはどう見ても中国人にしか見えなかった。しかし、実際は戦後まもなく、当時の「満州」で親と離れ離れになり、中国人によって育てられたれっきとした日本人だった。私の母は、その記者会見の映像を見るたびに号泣しながら「私もあの人たちのように残留孤児になっていたかもしれない。他人事とは思えない。しかし、私の場合は母親が必死で、弟と妹と一緒に日本まで連れ帰ってくれた。感謝してもしきれない」と口にした。 当時の私が「満州」に抱いていたイメージは、第二次大戦前に中国に存在した日本による傀儡国家という、漠然としたものだった。しかし、そのイメージは、その後、山崎豊子が書いた、中国残留孤児を主人公にした「大地の子」を読み、満洲国の傀儡皇帝を描いた映画「ラストエンペラー」を見ることで、少しずつ具体性を伴うものとなった。 私の母、福田恵美子(旧姓は河野)は昭和12年(1937年)、満州で生まれた。最初に満州に渡ったのは、私の祖父に当たる河野進だった。大分県の日田林工高校を卒業した進は、満州の木材の伐採所に就職し、やがて故郷の大分県から妻、カヨを迎えた。製材業を営んでいた…

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