ラウラ・ホンダ・ハセガワ

(Laura Honda-Hasegawa)

1947年ブラジル・サンパウロ市で生まれる。2009年まで教育の分野に従事していたが、その後は、一番情熱がもてる執筆活動に専念している。彼女の作品にはエッセイ、短編、詩、小説などがあり、どれも日系のレンズを通して描かれている。

(2018年9月 更新)

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デカセギ・ストーリー

第四十三話 朋美もナルトも夢を追う

日本人の父親と日系ブラジル人の母親を持つ朋美は19歳。 デカセギとして日本へ行った朋美の母親は、はじめは名古屋のパン屋さんで働いていた。そのとき近所の自転車修理店のオーナーに誘われパン屋さんを辞めて自転車修理店で働くようになった。その後すぐに2人は恋に落ち、一緒に暮らすようになった。それから、朋美が生まれて、生活は充実、安定していた。 4年前、とても残念なことに、朋美の父親が肺がんで亡くなってしまった。親子の生活は一変した。両親は正式に結婚していなかったので、自転車修理店は父親の兄夫婦が経営を引き継ぐことになり、朋美と母親は住まいをも失い、ブラジルに戻らざるを得なくなった。 「勝手に日本に行って、20歳も年上のマリード1でないマリードを持つアホがいるか」、「罰が当たったんだ」、「娘が可哀そう」などと、ブラジルへ戻った母親は家族に散々言われた。 そんな母親に幼なじみは、住まいを提供し、仕事を紹介した。 一方当時の朋美は、片言しかポルトガル語が話せず、そんな自分を恥ずかしく思うとともに、悔しい思いを感じていた。あちこち調べて、デカセギの子どもをサポートするポルトガル語教室に通い始めた。一生懸命勉強したので、その1年後にはブラジルの高校へ進学することができた。 学校では、クラスメートたちが朋美に漫画、アニメ、コスプレ、J-POP やK-POPのことを聞いてくるようになった。…

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デカセギ・ストーリー

第四十二話 バチャンが日本にやってくる!

僕の名前は竜馬・レオナルド、11歳です。「竜馬」は大河ドラマを見て坂本竜馬のファンになったブラジル人のパパイ1が選びました。パパイは日本名だけで良いと思ってましたが、日系三世のママエ2はレオナルド・ディカプリオの大ファンで「レオナルド」という名前をどうしても付けたいと、最終的にこの名前になったそうです。面白いことに、皆は「レオナルド」ではなく「竜馬」と僕を呼びます。僕はこの名前が大好きなので、とてもうれしいです。 両親は2007年に日本に来て、僕は2011 年、愛知県豊橋市で生まれました。 僕は3歳のとき、はじめてブラジルへ行きましたが、よく覚えていません。ママエのお父さん、つまり僕のジッチャンが病気になったからです。ママエは僕を連れて急いで戻りましたが、ジッチャンはすぐに亡くなってしまいました。 バチャンの子どもは4人。長男と次男は高校を卒業するとすぐに日本へ出稼ぎに来て、日本で結婚して子供もいます。長女のママエはブラジルで結婚して日本で暮らし、次女はカナダで語学留学をしています。 ブラジルでひとりになったバチャンをママエは日本に呼び寄せようとしましたが、当時のバチャンはまだ市役所で働いており、6年後には定年を迎えるからその時日本へ行くとママエと約束しました。 「バチャン、いつ日本に来るの?」と、孫たちは電話やビデオコールでいつも聞いています。僕は、いとこたちと違って…

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デカセギ・ストーリー

第四十一話 生き別れになったユゴと母親

ユゴが4歳のとき、両親は別れ、母のエネイダは一人で生まれ育ったポルト・セグロに戻った。 ユゴの父親は、このような別れ方をするだろうと思っていたからそんなに驚かなかった。 「エネイダは、テレビドラマで見るサンパウロの暮らしに憧れてただけだよ」 「そんなエネイダに一目ぼれなんて、本当にアホ息子だ」 「赤ちゃんのユゴの面倒も見ずに街に遊びに行くなんて、信じられない!」 と、親戚は最初からいろいろと言った。 父親が朝市で働いている間、ユゴはいつも近所に住む父の姉ティア1はるみに預けられた。母親が居なくなった後も、同じだった。 小学生になると、ユゴは家で父親とゲームをしてよく遊んだ。父親は、ユゴの勉強も見てくれた。父親はユゴの大の友達でありヒーローでもあった。 ユゴが中学校を卒業するころ、父親は再婚を進められた。相手は日本へ出稼ぎに行く準備をしていた元看護師だった。父親はとても悩んだ。しかし、「ユゴはブラジルで高校を卒業するのが一番だ。自分一人だけでは、日本に絶対に行かない。ユゴとは離れたくない」と、父親は縁談を断った。 高校の3年間はあっという間に過ぎた。卒業したユゴは、父親と日本へ行くことにした。その一年ほど前に、ティアはるみと家族がすでに神奈川県大和市に移住していたので、ユゴたちも同じ町に住むことにした。 父親は電子部品製造会社に勤め、ユゴはアルバイトをしながら専…

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第四十話 日本を目指す4姉妹

内山家の4姉妹はいつも一緒だった。子供のころは、おばあちゃんの庭でままごと遊び、思春期には映画やコンサート、旅行へと、いつも一緒だった。 しかし、大人になると、それぞれが別の道を選び、離れて行った。 長女のユキは大手銀行の公募に合格し、有望なキャリアを積み上げていった。 次女のユリは仕事場で知り合ったカナダ人と結婚し、バンクーバーへ渡った。 三女のマリは幼なじみのケンちゃんと結婚し、二人は日本へ出稼ぎに行った。 四女のミナは大学卒業後、ブラジリアの新聞社に勤めていた。 そして、5年ぶりにマリは里帰りした。「小さいときから日焼けしてたけど、今は色白になったね!」「ジンーズしか履かなかった活発な女の子が、今はレディーに変身した!」「もう日本語も話せるんだ!」「日本はすごい!人を見違えるほど変えてしまう!」と、皆が驚いた。 すると、たまたま実家に戻っていたミナが言った「日本は特別な国だよね。私も日本で暮らしてみたい!」 ミナは何度も海外へ旅行したことはあるが、日本へは一度も行ったことがなかった。学生のころ、ジャーナリストになりたいと話すと、「記事は日本語で書くのでしょう?」と言われ、「日本語は分かりません!ブラジル人ですから」と、答えていた。 しかし祖母はよく言っていた。「顔はルーツを語る」と。最近では「いくらブラジルで生まれても、顔は日本人だから、日本のことや日本語…

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(後編) 日本がわたしにくれた物

前編を読む >> その日の午後6時頃に、スミエのお母さんは仕事から戻った。「ただいま!ねぇ、どんなもの買ってきたの?今のベビー服ってカワイイでしょう?」と言いながら、急いでスーパーの買い物をキッチンに置きに行った。 しかし返事がなかった。二階に上がると、スミエがベッドで気を失って倒れていた。 翌日、スミエは病室で目覚めた。お母さんの顔を見ると「ここはどこ?何があったの?」と、不安そうに尋ねた。スミエは気分が悪くなり、横になったところまでしか覚えていなかった。 母親は心配そうに、娘の顔を覗いて手を握りしめた。スミエに流産したことを伝えた。スミエは、深い絶望と悲しみのあまりに、無反応だった。母は何を言っても虚しいだけだと思い、スミエを静かに見守った。想像はしていたが、実際、とても辛かった。 流産は、妊娠初期によく起こることだ。しかもスミエの血圧は高く、一人で帰省するプレッシャーもあったのだろう。医師は、流産したことは、絶対に彼女のせいではないと、家族に説明した。 退院後、スミエは部屋に閉じこもり、ぼんやりと日々を過ごしていた。流産の知らせを聞いた夫のマルコは、慌てて日本から駆け付けたが、スミエは部屋から一歩も出ようとしなかった。「疲れているから、ここにじっとしていたい」と。 結局、スミエの両親とマルコが今後について話し合った。4か月後の2020年3月、マルコが会社から1…

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