長谷川 美波

(はせがわ・みなみ)

北米報知インターン記者(2018年現在)。上智大学文学部新聞学科在学中。シアトル大学で交換留学生として1年間ジャーナリズムを学んでいる。留学中に日系移民の歴史に関心を寄せ、北米報知で日系移民150周年を記念した“Nikkei Family History”の連載を担当。日系アメリカ人と日本人両者に幅広く伝わる取材活動を目指す。東京都練馬区出身。

(2018年5月 更新)

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シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリー

日系二世ベテラン、トシ・トクナガさん ~アメリカ軍として戦った私の戦争体験~

「君たちは70年も前のことを聞いているのかい?」 トシさんが第一声で笑いながら答えた。本当にこの人が、70年も前にアメリカ軍兵士としてヨーロッパの激戦地で戦った人なのだろうか。その笑った顔からは想像がつかない。 第二次世界大戦中、アイダホ州のミニドカ収容所で生活し、その後にアメリカ軍に入隊してヨーロッパ戦線へ向かったトシ・トクナガさん(93)。現在は日系移民向けの老人養護施設ニッケイ・マナーで妻のドリーさんと共に静かに暮らしている。部屋の壁には家族の写真や、退役軍人に贈られた勲章の数々、メダルなどがずらりと並ぶ。 トシオ・トクナガさんはワシントン州セレック出身。トシは昔からのニックネームだ。両親は愛媛県からシアトルへ渡った日系移民一世で、第二次世界大戦が始まると他の日系人と同様に、家族でミニドカ収容所へ送られた。当時トシさんは17歳だった。 収容所内の高校を卒業すると、サム叔父さんから「おいでよ(Come on)」と日系二世のアメリカ人青年で構成された442部隊へ召集され、選択の余地もなく入隊した。「冒険に出るような気持ちだったけど、次に何をするのか全く想像がつかなった」 トシさんはまずミシシッピにある基地に送られ、基礎訓練を受けた。訓練を全て終えると、他の日系二世の442部隊とは異なり、パラシュート専門の507部隊へ加わるよう通告を受けた。 その後、ジョージア州にあ…

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語り継がれる、戦時中の収容所での暮らし

アジア系移民の歴史を伝承するウィング・ルーク博物館のシアターで、家族の移民の歴史と戦時中の収容所での生活を語り継ぐ女性、アイリーン・マノさん。ケン・モチヅキさん著作で、アイリーンさんの家族の戦時中の収容所での生活を綴った記録「Minidoka Memoirs: The Untold Story from the Yoshito Fujii Files」にも登場するアイリーンさんの話を、今日はユダヤ人学校の生徒およそ30名が真剣な眼差しで聞き入っている。「収容所では何を食べていたの?」「どうやって生活に必要なお金を稼いでいたの?」と小学生たちからの質問はつきない。 アイリーンさんの両親が広島から移民した1920 年代は、日系1世たちの農業や自営業での成功によって、日系社会が大きな経済的繁栄を遂げた時期でもある。1930年のシアトルには最大で8500人の日系人が住み、ロサンゼルスに次ぐ北米最大規模の日系人口だったと言われている。シアトルを代表するパイクプレイス・マーケットも、当時は販売者のおよそ75%が日系人だった。 しかし、1929年の世界恐慌と日中戦争の時代から日米関係の雲行きが怪しくなってくると、日系社会も厳しい立場に追い込まれた。戦争が始まる前の日本人に対する差別は凄まじかったとアイリーンさんは語る。 「戦争前の時代は戦後よりもずっと強いアジア人に対する差別がありま…

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シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリー

シアトルで知る、海をまたいだ戦争体験 ~藤井ファミリー~

広島県広島市出身で、6歳から10歳まで戦争を体験し、その後結婚を機にシアトルへ移住した藤井藹子(ふじい・あいこ)さん。米国書道研究会シアトル支部やシアトル別院仏教会に属し、書道・花道・茶道などを通してシアトルの日本人コミュニティーで活躍してきた彼女に、戦時中から渡米までの日本での生活と、原爆を体験した父・七森勝郎(ななもり・かつろう)氏との思い出を伺った。 戦時中、藹子さんとその家族は、広島市教育委員会視学として広島市役所に勤務する勝郎と離れて、広島県福山市に疎開していた。福山市も、広島原爆投下の前日にあたる1945年8月5日にはB29による空爆に襲われた。それでも、広島から離れていた母親と兄弟姉妹は、被災を免れた。 広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分。広島に残っていた勝郎は、その日は午後から出勤する予定だったため、原爆が投下された朝は幸いにも市街の中心から少し離れた自宅にいた。「自宅は比治山(ひじやま)の麓近くにあって、比治山の陰になっていたから崩壊せずに済みました。そして、父はたまたま、縁側ではなくて奥の部屋で新聞を読んでいたから(直接の放射能を浴びずにすんで)助かりました。縁側においてあった鉄製のミシンが吹き飛ぶほどの爆風だったそうですから。多くの幸運が重なりました」、と藹子さんは語る。勝郎は責任上、すぐに原爆ドーム近くの市役所へ向かった。市役所…

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シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリー

初めて知る日系移民ヒストリー ~イデグチ・ファミリー~

2017年9月、私は1年間の交換留学のためにシアトルに来た。東京で生まれ、21年間を家族と共に生活してきた私は、海外での長期生活は楽しみよりも不安のほうが大きかった。大学の授業では、内容を理解することもディスカッションで発言することもできず、毎日落ち込んだ。アメリカ人は皆フレンドリーだと感じたが、気軽に遊びに出かけるような友だちを作るのには時間がかかった。生活するので精一杯だった中でインターナショナル・ディストリクトを訪れた時、こんなにも日本の雰囲気を感じることのできる場所がアメリカにあるのかと驚き、懐かしさで胸がいっぱいになった。それと同時に、なぜこれほど日本の文化があるのだろう?と気になって仕方がなかった。北米報知でインターンシップを始めるまで、私は日系移民の歴史を何も知らなかった。 インターンシップを始めてから、過去の『北米報知』の日系移民に関する記事や本を読みあさった。その歴史を学ぶことは、これまで考えもしなかった自分とシアトルのつながりを感じられるような気がして面白かった。日系移民が始まってか ら150年の歴史はとても濃く、日系移民一人ひとりに苦労の歴史があるのだと知った。インターナショナル・ディストリクトを訪れる度に街の見え方が変わり、それぞれのファミリー・ヒストリーを聞くことは、留学中の楽しみのひとつになった。今回はシアトル大学で出会った日系4世の友人、シャーロン…

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