平原 哲也

(ひらはら・てつや)

中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。2020年に北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を自費出版。

(2022年 9月更新)

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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《シアトル編》

第4回(最終回) 2世によるラジオ番組とその終了

第3回を読む >> 日系アメリカ人クーリエ放送 『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ』紙(Japanese American Courier、以後『クーリエ』紙)は1928年1月にシアトルで創刊された2世を対象とした英字週刊紙(ジェームス坂本社長)で、毎週土曜日に発行されていた。当初はシアトル周辺をカバーしただけであったが、その後に西海岸に版図を広げた。 この英字紙が主宰するラジオ番組が1934年2月にKXA局で開始された(一時期KOL局やKJR局に変更された)。毎週火曜日午後8時からの30分番組で、正式には「Our Japanese Community」と称した。英語を主体に、時折日本語も使用されていたようである。アナウンスは俳優としても活動していた中村鶴英が担当した。「つるえ」という名前の発音がアメリカ人にとって難しいため、中村はツル(Tura)の愛称で知られていた。中村の不在時にはクーリエ紙編集部員の金沢徹(英語担当)や石神伝蔵(日本語担当)がアナウンスを担当した。石神は落語、浪花節などの演目で番組に出演し、リスナーにはお馴染みの人物であった。 当初の番組内容は地元で活動するクラシック、洋楽および邦楽アーティストによる生演奏、日本から送られてきたレコード演奏、そしてスピーチの3本立てであった。 音楽分野では、バイオリンの神童と呼ばれた田実和子、アエオリアン…

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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《シアトル編》

第3回 日系ビジネスがこぞってラジオ放送参入

第2回を読む >> 三輪堂 1931年1月時点でKFQW局では隔週木曜日に中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)が行われていたが、この番組のない週の同時間(午後7時半〜8時)にも日本音楽が流れてくるようになった。書籍、雑誌文房具、写真機械などを販売する三輪堂がスポンサーとなった番組である。これで毎週木曜日には、日本音楽がラジオで楽しめることになった。1930年には既に番組が開始されていたものと思われるが、同年の邦字紙が保存されていないため、いつから三輪堂の番組が始まったのかを特定することはできていない。 中村時計店の番組と同様に、筑前琵琶、落語、浪曲、長唄、小唄、童謡などのレコードを流すのが常であったが、生演奏も取り入れた。例えば、シアトルを訪問した口笛の名手アーネスト・ニッケルとシアトルの口笛界を代表する荒井よねによる口笛二重奏による「荒城の月」と「墓詣」、初音会の中谷福子師匠の端唄「流しの枝」と長唄「多摩川」、あるいはアメリカ各地を演奏旅行して薩摩琵琶(錦心流)の名手だった山口法水の「川中島」など、多彩な内容の生演奏が放送された。中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)終了にあわせて、1931年5月7日が最終放送になったものと思われる。 三輪堂はその後に相模屋と合併して三輪堂相模屋商店となり、ビクター・コロンビア・ラジオ蓄音機やレコード特約の販売店となった。同店はソプラ…

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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《シアトル編》

第2回 大人気の日系音楽番組

第1回を読む>> 中村時計店の日本音曲放送 北米各地をみても、1920年代の定期的な日系ラジオ番組というのはほとんど存在しないなかで、1928年8月24日にシアトルのKFQW局で「日本音曲放送」が開始された。福井県出身の中村政吉が経営していた中村時計商会がスポンサーになった。 同店では時計に加えてラジオや蓄音機の販売も行っていて、試聴のためにラジオを無償で貸し出すといった斬新なアイデアを打ち出していた。同店では、「ラヂオをお買ひなすた方に日本音曲をお聞かせするのも私共のお勉めです」(『大北日報』1928年12月24日号より)としてサービスぶりをアピールしている。 邦字新聞には、番組案内と共に一台百数十ドルのラジオ受信機の宣伝広告が掲載された。この価格は、当時の日本への船便三等往復運賃に相当し、一般庶民にはおいそれとは手の出せるものではなかった。それでも、数少ない富裕層からの需要はあったものと思われる。 この「日本音曲放送」はその放送時間帯により、3つの時期に分けられる。第1期は1928年8月の放送開始から1929年6月までで、月1回、午後8時から1時間の番組である。番組中に日本語のアナウンスがなされたかどうかは定かではない。 「日本音曲放送」という番組名の示す如く、日本から送られたレコードを流すもので、第1回の番組では和洋合奏「神田情調」、童謡「南京言葉」「高峯琵…

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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《シアトル編》

第1回 日本語放送前史

日系音楽家の活躍 日本語番組が始まる前には、アメリカのラジオ放送に出演して活躍する日本人音楽家がいた。早いものでは、1922年3月にサンカルロ・オペラ団の一員としてシアトル公演中のソプラノ歌手である三浦環がラジオ出演したとハワイの新聞が報じている。 シアトル地元紙での報道が見当たらず、その真偽はわからない。確かなのは、「シアトルが生んだソプラノ」と呼ばれた声楽家だった名取みよしが1924年以降に、KFOA局の専属歌手としてしばしば歌声を披露したことである。 名取みよしは、北米時事の杉町八重充記者と結婚して杉町性を名乗り、マダム・スギマチとして広く知られるようになる。KFOA局は、ダウンタウンのユニオン街と2番街の角にあったローズ百貨店(Rhodes Department Store)が経営したラジオ局で、店舗の4階にスタジオを設けて1924年3月に開局した。同局は日本人音楽家にスポットを当てた番組をいくつも企画していて、上杉定(バイオリン、1924年出演)、藤原義江(テナー、1925年出演)、佐藤時太郎(ハーモニカ、1928年出演)、アグネス宮川(ソプラノ、1928年出演)らが出演した。 1925年11月には、オリンピック・ホテルで開催された宮崎申郎領事代理主催の明治節レセプションの中継も行われ、日米国歌演奏と宮崎領事代理やシャンク日本協会長の挨拶が放送された。ま…

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