新舛 育雄

(しんます・いくお)

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第10回(その5)『北米時事』の歴史—日米大戦突入時での記事と最後の発行

前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。 日米大戦突入 1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。 大戦開始の翌日に発行ができた理由は、文献に「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊英文紙)のジミー坂本氏に依頼して、ワシントン州検事総長の諒解をもらった」からだと記述がある。 社員による発行継続 日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。当時の発行を続けた社員ら状況と、その思いが伝わる内容だ。 「社告」(1942年1月2日号) 「米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思ひ、その筋の諒解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。 其の間本社は資産一切を封鎖されましたので直ちに特別ライセンス下附方を願ひ出し…

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第10回(その4)『北米時事』の歴史—有馬純義

前回は『北米時事』女性社員の投稿記事と5000号記念の時の記事及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたが今回は日本人会会長であり、新聞記者でもある有馬純義が書いた記事を紹介したい。  日本人会長としての有馬純義 有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。 1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に有馬純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。 「有馬氏帰国」(1938年3月4日号) 「本社有馬純義は予て帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3ケ月の予定で帰国」 「有馬氏へ留任勧告」(1938年3月5日号) 「昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告する事に決し、直ちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電」 有馬純義は氷川丸船中からこの時の心境を次のように語っている。 「北米春秋:離愁」(1938年3月8日号)  「僕の出発に当たり、二三の人々から『日本人会…

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第10回(その3)『北米時事』の歴史 — 女性社員の投稿と5000号記念

前回は『北米時事』の寄稿者の様子と社員についての記事を紹介したが今回は女性社員の投稿記事と5000号記念及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたい。 女性社員の投稿記事 高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号) 「私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望致したい事がある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油がきれては廻せないから如何に聖職である教師も御飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私達はそれに報ゆるに援助を以てしなければならないだろうと考える。 (中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。 (中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用を以て新聞記者を増し、同胞のいる場所には必ず記者をおき、現日会幹事のする仕事をさしたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。 領事の権威を以…

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第10回(その2)『北米時事』の歴史 — 広がる寄稿者の輪と社員の様子

前回は『北米時事』の創刊時の様子についてお伝えしたが、今回は広がる寄稿者の輪と社員の様子についての記事を紹介したい。  広がる寄稿者の輪 『北米時事』が有馬家が受け継いだ後も、創業メンバーや初期の主筆らは、同紙と深くかかわっていたようだ。また、元社員の多くが、その後も各地から記事を寄稿していた。  「北米時事社 名簿」1918年1月1日号、1919年1月1日号 1918年1月1日号及び1919年1月1日号に当時の北米時事社社員名一覧がある。この一覧を見ると、シアトル本社に20数名、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバー等に10数名、日本にも数名の社員がいた。有馬純清(すみきよ)社長は1919年には一時東京にいたようだ。1930年代には有馬純義(すみよし)が社長を受け継いでいるので、20年代のどこかで日本へ帰国したのかもしれない。 『新日本』記者だった中島梧街、また同紙創業者の山岡音高の名前が、社友として並んでいるのは興味深い。中島梧街はこの頃に多くの記事を投稿している。また、創業期に主筆を務めた初鹿野梨村が社友として、藤岡紫朗はロサンゼルス駐在として記されている。 主筆を退いた後の初鹿野梨村と藤岡紫朗について書かれた記事を紹介したい。 「初鹿野氏帰る」1918年9月9日号 「アラスカ・オーカキャナリーへ赴きたる初鹿野氏は、詩囊(し…

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第10回(その1) 『北米時事』の歴史 — 創刊時の様子

前回は日本人ホテル業の発展についてお伝えしたが、今回はシアトル日本人コミュニティを支えた邦字新聞について、とくに『北米報知』の前身にあたる『北米時事』の創刊時の様子についてお伝えしたい。  邦字新聞の誕生 20世紀に入ると、シアトル日本人コミュニティの発展と共に多くの邦字新聞が誕生した。北米時事は、歯科医だった隅元清(くまもと・きよし)、平出商店創業者の平出倉之助(第4回「シアトルで活躍した人達」平出亀太郎 参照)、矢田貝柔二、山本一郎の4名が出資、山田作太郎(さくたろう)鈍牛(すみぎゅう)を最初の主筆として、1902年9月1日に日刊邦字新聞として創刊した。当時のオフィスは、ジャクソン・ストリート沿いにあった平出商店の階下におかれた。 『新日本』も同年に創刊。続いて1905年3月1日『旭新聞』、1910年1月1日『大北日報』が創刊された。邦字新聞はシアトルに住む日本人にとって、なくてはならない重要な情報源だった。  創業時の主筆たち 『新日本』に勤務した中島梧街(ごがい)が、ライバル紙『北米時事』の創刊当時の様子を、回想しながら克明に語っている。 「北米時事と私」(1918年2月29日号) 「私が米国に来たのは、1903年7月だった。(中略)その頃シアトルには『北米時事』と『新日本』という日刊新聞があって、『北米時事』は繁栄派を代表…

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