チャンダ・イシサカ

(Chanda Ishisaka)

チャンダ・イシサカさんは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡のモントレーパークで生まれ育ちました。彼女は日系アメリカ人四世であり、メキシコ系アメリカ人でもあります。イシサカさんは、6年間シアトルに住み、日系コミュニティに喜んで参加し、ミニドカ巡礼企画委員会の一員として年に一度、第二次世界大戦時の強制収容所であるアイダホ州ミニドカ収容所への巡礼を実施してきました。イシサカさんは、現在カリフォルニア州オレンジ郡在住です。

(2014年11月 更新)

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ニッケイ物語 4—ニッケイ・ファミリー: 記憶、伝統、家族観

How I Remet my Mother

When thinking of the journal theme of Nikkei families, I thought of how much my family has shaped me but how little I have included them in my own involvement in the Japanese community. Even more, how much have I included my Mexican mother in my Japanese community? Last year I was hit with a dilemma. My mother was coming to visit me in Seattle when I actually needed to leave for Idaho. My organization, the Minidoka Pilgrimage Planning Committee, was having our annual pilgrimage trip, bringing over two hundred people to the former World War II Japanese incarceration camp in Idaho for four day…

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ニッケイ物語 3—ニッケイ人の名前:太郎・ジョン・フアン・ジョアオ?

千代の子

私のミドルネームにまつわるストーリーは、幼い頃の私のプライドとプレッシャーとなっていました。チヨコという私のミドルネームは、父の母である私の祖母、千代子からつけられました。私が生まれる前、祖母は胃がんと闘っていました。私が生まれるまで生きようと努力しましたが、生まれる2、3ヶ月前、祖母は亡くなりました。両親は私に、家族がどんなに祖母の死を悲しみ、そして私が再び家族に幸せをもたらしたと話してくれました。両親の大好きな、私が赤ん坊だった頃の思い出は、私を連れて祖父の家に行き、祖父が私と唄い踊ることでした。 子供の頃、私は、丘1つ超えたところに住む祖父とよく一緒に過ごしました。祖父は、私の大叔母である祖父の妹と叔母にあたる娘と暮らしていました。祖父と大叔母は2人ともパートナーに先立たれており、2人の家は、厳粛さと礼儀正しさが入り交じった雰囲気がありながら、深い愛情で包まれていました。 夕食後、祖父と大叔母、弟と私は「ホイール・オブ・フォーチューン」(テレビ番組)を見て、クイズの答えを予想したものでした。そして祖父は、自分の部屋へ行き、カラオケのスイッチを入れるのです。祖父は、自分の部屋で日本の演歌を唄うのが大好きでした。私は、部屋に入り、祖父が唄うところを見たことはありませんでした。日本語ができないので、何を唄っているかわかりませんでした。でも、祖父の声から寂しさと恋しさを聞き取る…

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The Minidoka Pilgrimage and Continuing the Legacy

Today I received the news that my friend and fellow Minidoka Pilgrimage Planning Committee member passed away. Frank was 2 years old during World War II when his family was told to leave Bainbridge Island and go to the Manzanar War Relocation Center in California and later sent to the camp called Minidoka in Idaho. To me, Frank was my elder, a man I respected and looked for guidance and wisdom. With his passing, I can’t help but reflect what the Minidoka Pilgrimage Planning Committee has meant to me over the years. I joined the Minidoka Pilgrimage Planning Committee in 2009 when I wa…

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ニッケイ物語 2—ニッケイ+: 混ざり合う言語、伝統、世代、人種の物語

怒れるハパ少女の柔道ダイアリー

私は、初めから柔道家になることを目指していたわけではありませんでした。私の計画は、学校の勉強に集中し、良い成績をとることでした。転機は、弟が5歳になった時、父が弟に柔道を勧めたことでした。私は弟に嫉妬し、自分も一緒に柔道を始めてもいいか、父に聞きました。父は、始めてもいいが黒帯をとるまで辞めないことが条件だ、と言いました。父が柔道の先生だったことは、この辺で触れておくべきでしょう。父は、一家から脱落者が出ることを許しませんでした。私は二つ返事でこの条件を飲み、柔道を始めました。私は7歳でした。 私は、柔道を始めた女子として、自分の領域を探り、居場所を見つけたいと思いました。ある日の練習で、先生は剣道の竹刀を持参し、私たちに走るよう促し、遅ければ竹刀で叩くと言いました。先生がそう言った時、私はニヤニヤ笑いました。私は、自分は女の子なので叩かれないだろうと高を括っていたのです。男の子たちが1人ずつ叩かれていくのを見て、私は自分が男の子ではないことがうれしくてまた笑いました。そしてのんびり走っていると、突然竹刀で背中を強く叩かれたのです。私はショックを受け、「私を叩くなんて!」と思いました。でも、先生がなぜ私を叩くのか、その時わかりました。私が他の男の子たちと平等な扱いを望むのであれば、彼らと同じ罰をも受け入れなければならなかったのです。 10歳の頃、私は自分がミックスであり女の子…

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ニッケイ物語 1 — いただきます!ニッケイ食文化を味わう

The Black Noodle

I made some soba for dinner today. Soba is a Japanese noodle made with buckwheat flour. My memory of soba noodles is having them with my obachan (grandma) at this one restaurant I grew up with called Oki’s in Monterey Park, California, which is no longer open. I must have been around six years old when one day, I was at Oki’s with my two aunts. I was trying to explain to them I wanted soba. Although at that time, I didn’t know what they were called. I never knew the Japanese words for the things I ate. I still call inari, “football.” At the restaurant, soba was…

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