アルベルト・松本

(あるべると・まつもと)

アルゼンチン日系二世。1990年、国費留学生として来日。横浜国大で法律の修士号取得。97年に渉外法務翻訳を専門にする会社を設立。横浜や東京地裁・家裁の元法廷通訳員、NHKの放送通訳でもある。JICA日系研修員のオリエンテーション講師(日本人の移民史、日本の教育制度を担当)。静岡県立大学でスペイン語講師、獨協大学法学部で「ラ米経済社会と法」の講師。外国人相談員の多文化共生講座等の講師。「所得税」と「在留資格と帰化」に対する本をスペイン語で出版。日本語では「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)、「30日で話せるスペイン語会話」(ナツメ社)等を出版。2017年10月JICA理事長による「国際協力感謝賞」を受賞。2018年は、外務省中南米局のラ米日系社会実相調査の分析報告書作成を担当した。http://www.ideamatsu.com 


(2020年4月 更新)

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南米の日系人、日本のラティーノ日系人

父のアルゼンチンでの64年間 ー その2

その1を読む >> 里帰りと日本にいる我々 父が初めて里帰りしたのは1970年の大阪万博の年である。この時日本のあまりの成長と発展を目にしびっくりしたようである。父は、ブラジルのサンパウロで日本航空の便に乗り換え、機内では当時ブエノスアイレスでは入手困難なウィスキー「ジョニーウォーカー」を飲み、羽田空港に到着後新幹線で四国の香川県に向かった(岡山乗換え)そうだ。 この時の様子を綴った父の葉書を母が何度も読んでくれたので今でもよく覚えている。当時まだ小学校2年生だった私は、たくさんのお土産(玩具)を楽しみにしていた。特に、日本語学校で野球をやっていたので、野球のグラブをお土産で持って帰ってもらえるのを待ち遠しくしていた。 父にとって13年ぶりの日本だったこともあり、感慨深いものがあったようだ。帰国後他の仲間と「アルゼンチンに移住せずそのまま農業研究所に残っていたら、自分の人生はどうであっただろう」と話していた。移住への後悔というより、次の挑戦を考えていたのかも知れない。 私が中学生の頃、母も単独で里帰りをした。、瀬戸大橋が開通した1988年と2006年には、父と母が二人で日本を訪れ、旅行を楽しんだ。日本から戻るたびに多くの食料品や家電、土産話を持ち帰っていたが、やはり両者とも自宅に着くと「やっぱり我が家が一番いい」と言っていた。同級生や親戚との食事会、ときには県庁への表敬…

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南米の日系人、日本のラティーノ日系人

父のアルゼンチンでの64年間 ー その1

これまで中南米と日本の日系人について、この「ディスカバーニッケイ」というこのサイトへ多くの記事を書いてきた。その中には私が生まれ育ったブエノスアイレス郊外にある「花の都:エスコバール」についてや、自分がマルビーナス戦争に従軍したことなど、記録すべきストーリーを綴らせてもらったことには感謝の言葉しかない。しかし、今回でこのシリーズも最後を迎える。最後の記事として、亡き父の「海外移住」という生き様を紹介したい。 父松本毅(つよし)は、戦後外務省海外農業実習生第1号として1957年に22歳で「あめりか丸」でアルゼンチンへ渡った。初めの3年はブエノスアイレス市郊外南東部にあった東江(あがりえ)新一氏の野菜農場で働き、移住前に農林省農業研究所園芸部野菜科で学んだ知識をフルに活用して、当時としはとてもめずらしいクリスマス前出荷のトマト栽培に成功した。経営者の東江氏はその栽培方法を拡大し、かなりの売り上げを得たという。 しかし、当時の父の月給は800ペソ。これはトマト二箱分に相当する額で、父はその成果に見合った分益小作を提案したが残念ながら受け入れられなかった。そのため、独立を決意して私の母になる和子との結婚を機に「花の都エスコバール」(ブエノス市北部50キロ)に転住し、3人の子供をもうけた。 母の和子は、父の妹のクラスメイトだったらしくその縁で1961年にアルゼンチンにやってきたそうだ…

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日本在住の日系人も老後の時期にきたのか

コロナ禍になって1年半が過ぎたが、日本国内では最近外国人の高齢化問題をテーマにしたセミナーが増えている。今年の3月末に名古屋市で開催されたシンポジウムは対面とオンラインのハイブリッド型で、私は「在日南米コミュニティーの高齢者の老後」について話をするためスピーカーとして招かれた。このシンポジウムでは、韓国人や中国人オールドカマーの事例やフィリピン人たちの試みなどが紹介され、とても興味深いものだった。 特に、我々南米の人間とフィリピン人は「老後」や「終活」という概念についてあまり深く考える機会をもたず、文化的にあまり馴染みがないことが分かった。主催団体の代表である木下貴雄(王榮) 氏によると、中国系のコミュニティーでは、老後への備えやグループホームの設立、介護保険の活用、語学や異文化を理解できる介護福祉士やケアマネージャーの育成、墓地の確保などを終活計画の一部として行ってきたという。かなり衝撃的だったが、海外に移住した日本人も、同様に生活に関わる諸制度を整備し、市営墓地に日本人のための敷地を確保してきたことを思い出した。 しかし、今の日本でそのような準備が必要かというと、私はそうは思わない。日本ではほぼ全てのものが整備されており、ニーズに応じてサービスが提供されている。それらのサービスを利用するにはそれなりの蓄えが必要であるが、外国人であっても必要なものを手に入れることはできる(…

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ウルグアイ日系社会の111年の足跡 — 第2部 花卉栽培とブエノスアイレスとの繋がり、そして次世代の日系ウルグアイ人

第1部を読む >> ウルグアイの日系人が最も多く従事した業種は花卉栽培で、40年ぐらい前までは花卉事業で十分な利益を得ることが可能だったようである。私の生まれ育ったブエノスアイレス郊外のエスコバール市も「花の都」として知られており、戦前から花卉栽培が盛んであった。エスコバールは首都ブエノスから北50キロ離れたところにあり、早い時期から鉄道も敷かれており、土壌が花の栽培に適していた。1940年ごろ、首都ブエノスアイレス郊外には100軒以上の花卉栽培者が存在しており、当時の記録によると、合計所有地が48ヘクタールで、借地が325ヘクタールにも及んでおり、切磋琢磨かつ熾烈な競争だったようである。2019年には、エスコバールはこの街の移住者第1号で、花卉栽培をもちこんだ賀集九平氏1の到着90周年を祝った2。 賀集氏は戦前から多くの人を育て、その一人が16歳の若さで1929年にアルゼンチンに入国した山本久夫氏であった。山本氏は、九平さんの下でカーネションや菊の栽培を学び、1937年に旅行でウルグアイを訪れるが、そのまま庭師としてウルグアイにとどまった。その1年後25歳のとき5ヘクタールの土地を買って独立し、アルゼンチンからカーネションの苗を仕入れ、本格的に花卉栽培を始めた。戦後の最盛期には30棟近くの温室が並んだという。坪田静仁氏とも親交を深め、1977年から2年間ウルグアイ日本人会長…

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ウルグアイ日系社会の111年の足跡 — 第1部 日本人移住の特徴

南米にあるウルグアイ(正式名称:ウルグアイ東方共和国)は、面積は17万平方キロメートル(日本の約半分)ほどの小さな国で、人口は横浜市とほぼ同じ350万人である。この国が最近日本で話題になったのは、2016年にホセ・ムヒカ元大統領が来日したときであろう。この時ムヒカ元大統領は、東京外国語大学で講演をし1、テレビで「世界でいちばん貧しい大統領2」としてとても質素で気さくなところを紹介された。また最近では、赤身の「ウルグアイ産牛肉」が焼肉チェーン店や肉専門店に提供されていることでも注目を浴びている3。  しかしこの国にも、現在350人前後の小さな日系社会が存在していることはあまり知られていない。しかも日本人が最初にウルグアイへ移住したのはブラジルと同じ1908年で、すでに113年の歴史を持っていることになる。また、日本人移住110周年の2018年12月には、安倍総理が日本の内閣総理大臣として初めてウルグアイを公式訪問し、現地の日系人らと懇談の機会をもった4。 ブラジルとウルグアイへの日本人移民の歴史の始まった年が同じなのは、偶然であってもその背景には繋がりがある。20世紀の初頭、ウルグアイとアルゼンチンは東洋系の移民の受け入れにはかなり慎重で、法で禁止されていた5。1908年6月、隣国ブラジルのサントス港に約800人の日本人移住者(集団移住)を乗せた笠戸丸が到着し、ブラジ…

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