中村 茂生

(なかむら・しげお)

立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

笠戸丸は「明治の精神」をのせて

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」(『こころ』より) 日本の高校生で、現代国語の時間にこの作品を読んだひとは多いと思う。もちろん全部ではなく、上の一節を含む「先生の遺書」の部分だけだ。どんな文 学作品でも教材になってしまうと退屈なものになる。私など、ほとんど一学期間かけてだらだらと読み続けたような、明らかに誤った記憶があるばかりで、中身 はまったく印象に残らなかった。『こころ』をおもしろく感じたのは、ずいぶん後に江藤淳の評論を通してのことだ。 江藤淳によると、「エゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかった」漱石(先生)は、天皇崩御とそれに続く 乃木の殉死に遭遇して、「『明治の精神』が、彼の内部でまったく死に絶えてはなかった」ことを悟ったのだという。それを悟って作家は、「自分が伝統的倫理 の側にたつものであることを明示するために」『こころ』を書き始めたと。(江藤淳「明治の一知識人」より) 「明治の精神」というのは、実は私にはわかるようでわからない。国家と自己が同一化され、政治家だろうと文学者だろうと当然のように分け持たれてい る、自分たちの国づくりに何…

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ブラジル国、ニッポン村だより

笠戸丸移民について考える

100年前の今頃、移民781人の契約移民と自由渡航者たちを乗せた笠戸丸は洋上にあった。サントス港に到着する6月18日まで、神戸港を出てから60日の航海である。 この笠戸丸移民の集合写真、というものがありそうでない。私が知っていたのは、ずっと鹿児島県出身者が神戸の神社で撮影したという一枚の写真だけだった。だけだった、と過去形にできるのは、つい最近、別の一枚を見る機会があったからで、その一枚をここに掲げる。笠戸丸甲板上に勢揃いした移民たち の、おそらく出港前の記念撮影である。 画像というのは不思議なもので、私のように想像力の羽ばたきの弱い人間でも、一見すればどこかが刺激されるらしく、いろんな思いがひっぱり出されて くる。どうやらこの写真、知っている人にはとっくに知られていたものらしいが、ブラジル日本移民史に興味を持ちながら、これまで笠戸丸移民についてはあま り明瞭なイメージを描けないまま来た私にとっては、ひとつの新しい、ちょっとした出会いだ。 はっきり見えるのは前のほうに写っている数名にすぎないが、移民たちの顔、というより面構えと言いたくなるような彼らの表情をどう読み取ればよいのだろ う。不安でもなく、かといって決意といった清々しいものでもない、なんとなくふてぶてしさすら感じるのは、ブラジルでコーヒー農園に入った彼らの多くに、 待遇に怒ってストライキを起こしたり、さっさと見…

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ブラジル国、ニッポン村だより

「移民の父」とその子供たち

100年の歴史を持つブラジル日本移民には、「移民の父」と呼ばれる存在がいる。ハワイ移民の父とかペルー移民の父というのは聞いたことがないがないから、「父」がいるのはブラジル日本移民だけかもしれない。 なるほど、ブラジルぐらい遠いと、受け入れ先を準備したり、移民船を調達したり、つまり誰かが言い出しっぺになって事業を立ち上げないことには始まらないわけで、そういったところで「父」も生まれる余地があるのだろう。 一連の仕事を手がけ、「移民の父」となったのは、水野龍という人物である。 移民の父といわばその「子どもたち」、第1回ブラジル日本移民約800名は、笠戸丸という船で1908年4月27日にブラジルに向けて出発した。そ の航海中、水野がつけていた日誌はサンパウロ州内陸部の町の史料館に保管されている。表紙の文字はかすれて読めなくなった、手のひらにのるぐらいの小さな 薄い手帳である。 史料館学芸員としてこの手帳の持ち主であった水野龍のことを少しずつ調べていたのが縁で、最近になって水野龍の息子、RZさんと出会うことになっ た。比喩的な「子ども」ではなく、正真正銘の血を分けた息子さんである。その気になれば簡単に訪ねることのできる距離にいながら、ずっと機会がなかったの は、江戸時代の終わりに生まれた水野龍の息子さんが健在のはずがないという思い込みがあったせいだ。探してみようという気すらおきなかった。…

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ブラジル国、ニッポン村だより

出稼ぎにまつわる話

2008年にちょうど100年になるブラジル日本移民史を、まずおおざっぱに頭に入れるために知っておいてよい数字は、約25万、約150万のふたつだろうか。 約25万というのはブラジルに移民した日本人の総数だ。戦前と戦後に分けると約19万人と約6万人ということになる。 約150万というのも人の数で、こちらは現在ブラジルにいる日系人の人口ということになっている。ということになっているというのは、しっかりとし た調査が行われていないからだ。150万人というのは日本で言えば山口県の人口に匹敵するが、ブラジル総人口の1パーセントにも満たない。ちなみに今もっ とも世代の進んだ日系人は、6世の少年だとされている。 そのほか最近よく話題になる数字に、約30万―これも人数である―というのがある。「出稼ぎ」に行って日本にいる日系ブラジル人の数である。移民としてブラジルに渡った数をはるかに上回る人数が現在日本で働いています、というのは近頃よく耳にする表現だ。 見た目は日本人と変わらないのに生活様式はすっかりブラジル式の日系ブラジル人たちと日本人との間には軋轢も生じる。ひとつの地区にどんどん集まる 日系ブラジル人に不安を感じる日本人もいる。そんなことから対立や騒ぎが起きることも珍しくない。何しろ30万人いるのだから犯罪も起きる。メディアはと くにそのなかから凶悪事件や事故に焦点を当て、日系ブラジル人の犯罪と…

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ブラジル国、ニッポン村だより

2008年正月 三番叟の復活上演

ここまで何回かにわたって、ブラジルのある町の歴史にかんする話題を取り上げてきた。 原野に突如日本人移住地として現れたこの町は、今年、開拓からひとつの区切りになる年を迎える。ひとつの町の歴史としては長いとはいえない、ちょうど人が 平均的に生きる程度の年月というところだろうか。記念の年を、その歴史の最初から立ち会っている移民一世、その子供たち、その子供たち、その子供たち、つ まりおそらく四世あたりまでを含め、日系人皆でお祝いしようとさまざまな計画が立てられている。 2008年のお正月、その最初の催しとして「三番叟」の復活上演が行われ、大成功を収めたという知らせが届いた。今では町の人口の8割を占めることになったブラジル人にも大好評だったといい、翌日、舞台を提供した文化協会の役員は現地の新聞の取材に追われたそうだ。 私の手元に、その舞台の写真がある。後述するある経緯から、三番叟鈴は私が日本から取り寄せて贈ったものだったが、その装束の本格的なことに驚い た。もち ろん自作である。無いものがあると、さてどこに行けば売っているかな、という発想をするのが普通になっていた私にとって、無いものはあるものを工夫して創 り出すという町の人たちの発想は常に新鮮だったが、装束?それは私が作るから、と事もなげに言った二人の舞手の言葉に、どこまで期待してよいのだろうとい う思いが実はずっとあった。インターネッ…

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