嶋 洋文

(しま・ようぶん)

嶋洋文は戦後の京都で生まれ育ち、その後、東京の海運会社に勤めた。彼の祖父母と3人の息子たちは、1907年ごろから順次カナダに移住した。しかし、1930年代までに、カナダ残留を選んだ一人の息子を除き、順次日本へ帰国をした。

2007年に定年を迎えた頃、伯父の正一がバンクーバー朝日の選手だったことを知り、それをきっかけにバンクーバー朝日の研究調査を開始した。現在は、ブリティッシュコロンビア州スポーツ殿堂の依頼に基づき、バンクーバー朝日の選手家族及び関係者の協力を得ながら、殿堂メダルを渡されていない選手や家族を探すボランティア活動を続けている。

(2018年10月 更新)

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バンクーバー朝日:殿堂メダリストの家族探索

バンクーバー朝日の発起人、児玉基治

このサイトでもいくつか紹介しているように、多くのバンクーバー朝日の選手たちは、殿堂入りしていたにもかかわらず、本人または家族の消息が分からずその功績が讃えられていなかった。児玉基治は、1914年発足のバンクーバー朝日チームの発起人の一人であり、その4年前に結成されたバンクーバー“ニッポン”チームの発起人でもあった。彼もまた、BC州スポーツ殿堂入りメダルを受け取っていない関係者のひとりであった。 児玉基治は、1877年広島で生まれた。1898年、21歳の時に米国シアトル・タコマに渡航し、その後、バンクーバーに移り、日加用達会社に首脳陣として勤務、加奈陀太平洋鉄道や加奈陀北部鉄道に対する人夫供給にも従事した。さらに調べてみると、彼は1918年に日本へ帰国し、寿屋洋酒店(現在のサントリーの前身)に入社をしていたことが分かった。 サントリーの社史によれば、国際派の彼は創業者の鳥井信治郎の秘書及びマネジャ-として活躍をし、1923年、日本初の国産ウイスキー山崎工場建設にも関わった。サントリー退職後も、生涯独身だった彼は、以前と同様に、兵庫県の雲雀丘にあった鳥井信治郎の邸宅に住み続けることを許された。 児玉の家族についてサントリーに直接問い合わせようかとも思ったが、会社側には個人のプライバシー保護方針があるので、何の縁もない私は直接問い合わせても情報を得…

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バンクーバー朝日:殿堂メダリストの家族探索

バンクーバー朝日初代選手—近藤与左衛門

戦前に大活躍した カナダの伝説の強豪日系人野球チーム、バンクーバー朝日は、遠い日本ではほとんど知られていなかった。しかし、2003年、2005年の殿堂入りで話題になり、1914年の創部から百周年にあたる2014年、日本映画『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)が制作された。その年、日本よりも早くバンクーバー国際映画祭で初披露され、観客賞を獲得した。 その3年前の2011年2月、多数のバンクーバー朝日選手を輩出した彦根の市役所で北米移民展が催された。その時展示されたバンクーバー朝日の集合写真を見て、そのうちの一人で氏名不明と記載されていた選手が、近藤与左衛門だと気がついた人がいた。与左衛門の娘、さだこだった。息子の正良と共に訪れていた。 そしてその3年後の2014年、前述の映画が上映された。この映画をみた正良は、彦根市役所で見たのと同じ写真を目にし、さっそく与左衛門とバンクーバー朝日について調べるが、特に新しい情報を見つけることはできなかった。 しかし、その頃正良は同じ地元でプラスチック加工業を営む松宮哲がバンクーバー朝日の調査を行っている旨の新聞記事を読み、早速連絡をとった。松宮哲は、祖父の外次郎が初期バンクーバー朝日の会長だったこともあり、私と共にバンクーバー朝日選手の家族調査をおこなっていた。 孫の正良は与左衛門(1898ー1963)の生涯について我々に教えてくれ…

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バンクーバー朝日:殿堂メダリストの家族探索

ジョージ伊賀:シアトルからのバンクーバー朝日メンバー

2003年、伝説の強豪日系人野球団のバンクーバー朝日がカナダ野球殿堂入りを果たし、2005年には、BC州スポーツ殿堂入りを果たした。しかし、選手や家族の所在が不明のため、多数の殿堂メダルが未渡し状態で残っていた。私の叔父の嶋正一選手も、その一人で、2014年に叔父に代り殿堂メダルをいただいた。私はそれをきっかけに、BC州スポーツ殿堂の未渡しメダリスト選手家族探しを手伝ってきた。そのいくつかの事例をこのサイトでも紹介してきた。 今回は、これら未渡しメダリスト選手の一人だった、シアトル旭チーム出身のジョージ伊賀選手の家族探しについて述べたいと思う。この家族探しは、シアトル大学のマリエ・ローズ・ウオン博士の多大な協力を得て実現した。 1887年生まれのジョージ伊賀は、もともとシアトル旭のショートストップとして活躍していた。時折、国境を越えて、バンクーバー朝日とも交流試合を重ねていたので、その際に目をつけられ、1921年にバンクーバー朝日が日本遠征をする時助っ人として参加したようだ。船上では、チームにすぐに馴染み、航海中には、そのころ流行っていた薩摩琵琶を披露し、皆を和ませたという。 2017年6月、伊賀選手の家族の所在を求めて、インターネット検索をしていた時、私はシアトル大学のマリエ・ローズ・ウオン博士が 日系アメリカ人の野球を研究しているとの記事を目にし、早速博士に連絡を取…

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ニッケイ物語9—勝敗を超えて: ニッケイスポーツ

バンクーバー朝日投手、土居健一と家族の物語

バンクーバー朝日がリーグ優勝を果たした1926年、土居健一はバンクーバー朝日チームの投手であった。しかし、元々彼は、バンクーバー島カンバーランドの第五鉱山の日系野球チーム「SUN(太陽)」の選手だったのだ。 この土居健一について詳しく知ることができたのは、小生の友人のノーム伊吹が、健一の長男で親友のジョージ土居を紹介してくれたからであった。 健一が野球選手として最盛期のころ、ジョージはまだ子供だったので、父が実際にプレイする姿については覚えてないという。唯一記憶に残っているのは、オープントラックの後方に乗って野球場に出かけ、試合を観戦したことだ。当時は誰もが野球をプレイし、観戦することを楽しんでいた。 そもそも、ジョージは父の健一がバンクーバー朝日の選手だったことを知らなかった。それを知ったのは、健一が亡くなった時に叔父のフレッド・タダオから「バンクーバー朝日がカンバーランドにやってきた時、投手の健一をリクルートした」という話を聞いた時だった。 1902年、土居健一はバンクーバー島のカンバーランドで生まれた。カンバーランド市の境界線に近い第五番鉱山周辺の第五番日系人地区で育った。そして、第五番地区の野球チーム「Sun」に所属し、投手として活躍した。 第5地区から少し離れた第一番日系人地区には、約40世帯の日本人家族が住んでおり、そこには「Nippon」という野球…

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初代バンクーバー朝日の児玉選手と田端選手の家族の追加調査 ー その2

その1を読む >> 田端賀一の日本在住の家族 これにて一件落着となったのだが、2019年11月27日東京の田端敬一という方から、次のメールが入った。 嶋様 突然のメールで失礼します。私は、田端敬一と申します。「ニッケイイメージズ」及び「ディスカバーニッケイ」(2018年10月25日)に寄稿されていました、バンクーバー朝日の田端賀一の孫になります。田端賀一には子供が7人(男4、女3)いて、第二次大戦前後で、日本に3人(男2、女1)、カナダに4人(男2、女2)在留することになりました。 田端賀一は、1895年三重県鈴鹿市生まれで、カナダのバンクーバー近辺に妻のぶとともに移住しました。私の父田端輝一(長男)は、1926年にバンクーバーで生まれ、4歳まで当地にいたそうです。その後、家族は日本に帰り、三重県鈴鹿市に住むこととなりましたが、戦前に子供3人だけを残し、家族はカナダへ出稼ぎに行き、第二次大戦が始まったそうです。私の父はもう死亡しましたが、父の弟はまだ元気で、鈴鹿市に住んでいます。 私は、田端輝一の長男で、三重県鈴鹿で生まれ、今は東京に住んでいます。1966年に田端賀一は戦後初めて日本に帰国し、しばらく滞在しましたが、またカナダに戻りました。カナダの親戚では、叔母(Aiko Tabata; Aiko Ido)、叔父(Haruaki Tabata)には30年以上前…

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