田中 裕介

(たなか・ゆうすけ)

札幌出身。早稲田大学第一文学社会学科卒業。1986年カナダ移住。フリーランス・ライター。グレーター・バンクーバー日系カナダ市民協会ブルテン誌、月刊ふれーざー誌に2012年以来コラム執筆中。元日系ボイス紙日本語編集者(1989-2012)。1994年以来トロントで「語りの会」主宰。立命館大学、フェリス女学院大学はじめ日本の諸大学で日系カナダ史の特別講師。1993年、マリカ・オマツ著「ほろ苦い勝利」(現代書館刊)により第4回カナダ首相翻訳文学賞受賞。

(2020年3月 更新)

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日系カナダ人強制収容から80周年

第3回 カナダ日系社会と「大本営発表」

第2回 >> 第一次世界大戦の後、日本は国際連盟に加盟し、日英同盟は破棄された。日英同盟の延長に関しては、英国自治領カナダの執拗な反対があった。カナダは英国から距離を置き自治権を強化し、安全保障のために米国との友好関係をより重視するようになったのである。 すでに、日本の経済力と軍事力の増大や露骨な拡張主義は、西洋列強の脅威となっていた。彼らの警戒心が人種差別意識によって増幅され、その矛先が北米の日系社会に向かったのは当然の帰結だったかもしれない。 1920年代、BC州政府は日系人の漁労許可証の4割停止を断行した。ヘネー農会の井上次郎は見兼ねて、「落伍者をだしては日本人の恥だ」と失業者を迎え入れた。だが、この善意はいわば仇となって返されることになる。漁業から転じてきた人たちは、ヘネーのリーダーたちが基督教に依拠し同化を目指していることに反旗を翻し、仏教会を設立した。これは、日本の戦争協力に否定的だった従来のヘネー共同体の分裂を意味した。 一方、バンクーバーの日本人会は領事館から「保証権」という名目で資金援助を受けていた。賭博場「昭和倶楽部」支配人・森井悦治は、日本人会の中に「時局委員会」を設置し、米国による日本への輸出禁止に抗して、アルミホイル、医薬品、慰問袋を集めて密かに祖国に送っていたという。RCMPがそれを察知しないはずはない。『Mutual Hostages(引き裂…

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日系カナダ人強制収容から80周年

第2回 「男のみ」の移動から「総移動」へ

第1回 >> そして、真珠湾攻撃の後、1942年1月、カナダ政府は、18歳以上45歳未満の日系人男子を道路建設キャンプに送ると発表した。当時44歳のボーディング・ハウス(下宿)経営者・川尻岩一(かわしり・いわいち)がそのキャンプ・リーダーであり長老格だったが、彼の知力と胆力は特筆に値する。彼は鳥取県人30数名をまとめて3月12日、総勢108人が道路キャンプへ向かった。 「男子が移動すれば、あとの日系人は移動しなくてよいと言って騙した人がいるのです」。「騙した人」とは、日系社会のボス・森井のことである。 道路キャンプでは、川尻さんはキャンプ全体の委員長、仲裁役として皆の面倒をみた。家族の身代わり、日系社会のためにと名乗り出た男たちだが、果たして自分の犠牲精神がどれほどの意味を持つのか、家族から届く手紙では、事態はどんどん悪化しており、強制立ち退きを命じられた妻たちは幼い子供を抱えて途方に暮れているようだった。男たちは「非常に心が荒廃していました」という。 「これはずるい政府の分断政策でした」という。総移動を委託されたBCSC(ブリティッシュ・コロンビア州保安委員会)は、日本の工作員となりうる男たちだけを沿岸部から遠ざけることで、もしも日本軍が西海岸を攻撃して来た時、第五列と化してカナダに反旗を翻す危険性を排除したのである。一方で、残された女、子供たちを引き立てて内陸部へ…

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日系カナダ人強制収容から80周年

第1回 日系人はこうして戦争に飲み込まれていった

日系アメリカ人にとって、大統領令第9066号が発令された「1942年2月19日」は、忘れてはならない「Day of Remembrance」。日系カナダ人にとっては、内閣令第1486号「1942年2月26日」がそれに該当するだろう。今年は日系人の強制収容から80年目である。日系カナダ人社会が、どのようにして戦争に巻き込まれていったのか、一世と二世リーダーたちを中心に読み解いてみたい。 * * * * * 1941年12月7日朝、真珠湾攻撃が日系人の日常をひっくり返した。バンクーバー市内のフェアビュー日本語学校校長の宮崎孝一郎さんは「その朝」のことを自著『明けゆく百年』にこう記している: 朝のラジオ番組のスイッチを入れた途端、「息がとまるようなショックを感じた」。そして、「信じまいとスイッチを切った」。キッチンでは妻が忙しく皿を洗っていた。 「戦争だぞ!」。声は震えていた。 「そう」と妻は気のない返事だ。 「日本がアメリカを・・・」 振り返った妻は、「どうかしたんですか」 「ハワイを攻めたらしいんだ」 妻は皿から手を放しながら、「冗談でしょう」とそっけなく言う。 「何かの間違いかな・・確かに今ラジオが・・」 確信の持てない夫に、「そうよ、あなたの聞き違いよ。あなたの英語では怪しいワ」と笑いながら皿を洗い続けた。 宮崎さんは事実を確かめるべく新聞社…

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お一人様お節テーブル

Delta からOmicronへ。2021年も、コロナ感染の渦中に飲み込まれたまま光陰矢の如しでした。 春、コロナ禍で職を失ったうちの家主が、家を売ると言い出し、「おっとー!俺もとうとうホームレスかあ!?」 と騒いだら、友人のソーシャル・ワーカーが「すぐにコミュニティ・ハウジングに申し込め」と言って申請を手伝ってくれた。数ヶ月後、ダウンタウンのド真ん中、CNタワーの麓、中華街の隣、オンタリオ美術館の裏のアパートに落ち着きました。ここは百年前にはThe Wardと呼ばれた移民たちが一旦住み着いた地区で、今では、ホームレスのシェルターから超高層コンドミニアムまで全部つまった「The Torontonian Bento Box」みたいなところ。 大晦日は、バルコニーからCNタワーを見ながらカウントダウン。摩天楼にこだまする「YEAH!!」という叫び声と同時に続いた無数の花火の炸裂音(霧で見えなかったけど)。 娘・そのみから毎年送られてくる可愛い干支の絵 (今年は寅年)を見ながら、友人の昌子さん(イヌイット・アート収集家として知られる)が、「今年も新年会はできないから、お節をお配りします」といって届けてくれた、心のこもった御節がこれです。 重箱の真ん中で威張っているのは、漢字で「海の老人」と書いて「エビ」と読むSHRIMP。ヒゲが長く伸び、腰が曲がるまで長生きできますよう…

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GHQ占領下の日本のエンターティナー: 日系カナダ人二世の俳優・歌手 サリー・中村哲

真珠湾攻撃(1941年)が起きた時点で、日本国内には1500名ほどの日系カナダ人がいたという(Ken Adachi, The Enemy That Never Was)。帰国の道を閉ざされた彼らの多くは「敵性国人」と疑われ、官憲から執拗に日本籍への変更を求められた。日本兵として出征した元バンクーバー朝日の選手に、和歌山の野田為雄(戦死)、広島の中西憲(戦傷)等がいる。 一方、二世の英語能力を活かして報道関係の仕事に就いた二世カナダ人が、少なくとも数人はいた。ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)を卒業し、日本政府から奨学金を得て来日し、上海のNHKでアナウンサーをしていた上野数馬。満州の新京(現・長春)で、国策新聞の英字紙デイリー・マンチュリアに勤めていた元ニューカナディアン編集長・東信夫(しのぶ)がいた。そして、東京のNHKには、英語番組「ゼロ・アワー」を制作していた元朝日チームの中村哲(さとし)がいた。 さらに、芸能界には藤原歌劇団の歌手として慰問団に加わり、戦地を巡っていた斉田愛子(BC州カンバーランド出身)がいた。愛子と哲はパウエル街の日本町で一緒に青春を過ごした仲だ。 日本在住の二世たちは皆、極めて高い能力を備えていたと思う。戦前のカナダで教育を受けた彼らに共通の思いがあるとすれば、あのままBC州にいては、人種差別的制度のために能力に見合った収入も社会的…

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