ジョージ・タフ

(George Tough)

ジョージ・タフさんは、カナダ各地で探査の仕事をし、高校教員、オンタリオ州天然資源省次官、政府やファースト・ネーション(カナダの先住民族)、企業への土地や資源関係のコンサルタントを務めた。結婚し3人の子供たちは独立し、現在2人の孫娘がいる。カナダ、オンタリオ州ピーターバラ在住。

(2016年7月 更新)

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クロー・クリーク居住地 その2

その1を読む >>  下記に記すのはビル・中庄司の家族の経験と彼の両親や他の人たちから聞き知った事です。ビルはまだ61歳です。排斥が始まった時には、ビルはまだ生まれていませんでした。アラインの情報、井出さんの手紙、ビルの母親へのインタービューからの覚え書き、郡の75周年記念本から、興味深い詳細がわかりました。 ビルの父親、正次(ジョゼフ)・中庄司は1941年に山田千代子と結婚しました。戦争対策法により、政府からの最初の排斥命令が出された時、ブリティッシュ・コロンビアの海岸沿いの町で彼は木の伐採をし、彼女は女中をしていました。 家族の最初の移動は、バンクーバーのヘイスティングス・パークの「一時引き止めセンター (holding centre)」でした。ここには何千人もの人達が集められ、幾つかの内陸部の「避難センター (evacuation centres)」へ送られるのを待っていました。それがどういったものだったのか中庄司夫人はこう書いています。 新婚で結婚生活を始めたばかりの我々にはあまりたくさんの持ち物はありませんでしたが、身の回りのものだけを持ってやって来ました。他の日本人の中にはボート、家、ビジネスなど、沢山のものを失わなければならない人達がいました。女と子供はへースティングス・パークにとどまるよう強制されました。何処へジョーが送られていったのか分…

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クロー・クリーク居住地 その1

これは、私が子供たちに話して聞かせていた物語の一つで、私が探査会社の仕事をしていた頃の体験談です。私は、まだ若かった10代の頃にクロー・クリークの住民と遭遇したことを数年前に書きましたが、このセツルメント(居住地)については多くの謎が残ったままでした。そこで私は居住地について調べてみることにしました。その結果がこのエッセイです。ビル・中庄司さんと奥様のドリスさん、カプシカシングからオパサティカ地域の多くのみなさんの協力がなければ書き上げることはできませんでした。 記録され、公開されるべき居住地の体験談は他にもたくさんあるでしょう。あってほしいと私は願っています。最近ではこの地域の人々でさえ日系人排斥の歴史背景についてほとんど知らず、そのような事実があったことさえ把握していません。 私は、この物語が正当に描かれていればと思います。そして読者の皆さんに楽しんでいただけるよう願っています。何か間違い(誤字を含めて)がありましたら、その責任は私にあります。 * * * * * 私にはスワスティカにジョン・メレルと言う親友がいました。彼とはよく自分たちの父親と一緒に仕事で森へ出かけました。私たちの父親は1940年後半から50年代初め、ある探査会社のパートナー同士でした。その後、私の父はカナダ側の天然資源探査代表としてフリーポート硫黄会社(Freeport Sulphur Co.…

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