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かつて若松コロニーにいた柳澤佐吉は1902年に日本帰国後、日本女子大学で西洋料理を教えた。同大学の成瀬記念館によると、1903年9月から嘱託教師として勤務し、1905年には退職しているという。
同大学では娘の米(よね)も同時期に英語の教師をしており、学報から2人の着任が確認できる。佐吉は1903年に「農事ニ関スル意見」という著書も執筆した。
米国で自身が得た知識と経験を日本で伝えていた佐吉だったが帰国から約3年後の1905年10月27日、東京市小石川区小日向台町(現在の文京区)にて永眠した。57歳だった。
コロニー時代の苦しい生活からの脱却、人種の壁、妻の死など、乗り越えなければならない幾多の苦難を経て、カリフォルニアでレストランオーナーとなり、娘をカリフォルニア大学の日本人女性初の卒業生にまで育て上げた佐吉。激動の時代を生き抜いた先駆者の旅は、日本で終焉(えん)の時を迎えた。
英語教育に力を注いだ米、日本でも医師免許取得
米は日本帰国後、1903年から1905年まで日本女子大学で英語を教え、1908年から国民女子学校で2年間、1910年から国民英学会で20年教べんをとった。1911年からは三共株式会社に嘱託として勤務。1924年から当時本郷にあった第一外国語学校で英語教師をしていた。1911年には健康法に関する著書「裸体生活」も出版。日本の医…