吉田 純子

(よしだ・じゅんこ)

東京都出身。法政大学法学部を卒業後、渡米。カリフォルニア州立大学チコ校コミュニケーション学部を卒業後、羅府新報社に入社。編集委員としてロサンゼルス、カリフォルニアの政治関連ニュースのほか、南カリフォルニアにおける日系社会の文化、アート、エンターテインメントや日米関係に関する取材活動および記事を執筆している。

(2018年4月 更新)

community en ja

若松コロニー:第5回 激動の時代を生き抜いた親子、佐吉と米の終焉の地、日本

第4回を読む >> かつて若松コロニーにいた柳澤佐吉は1902年に日本帰国後、日本女子大学で西洋料理を教えた。同大学の成瀬記念館によると、1903年9月から嘱託教師として勤務し、1905年には退職しているという。 同大学では娘の米(よね)も同時期に英語の教師をしており、学報から2人の着任が確認できる。佐吉は1903年に「農事ニ関スル意見」という著書も執筆した。 米国で自身が得た知識と経験を日本で伝えていた佐吉だったが帰国から約3年後の1905年10月27日、東京市小石川区小日向台町(現在の文京区)にて永眠した。57歳だった。 コロニー時代の苦しい生活からの脱却、人種の壁、妻の死など、乗り越えなければならない幾多の苦難を経て、カリフォルニアでレストランオーナーとなり、娘をカリフォルニア大学の日本人女性初の卒業生にまで育て上げた佐吉。激動の時代を生き抜いた先駆者の旅は、日本で終焉(えん)の時を迎えた。 英語教育に力を注いだ米、日本でも医師免許取得 米は日本帰国後、1903年から1905年まで日本女子大学で英語を教え、1908年から国民女子学校で2年間、1910年から国民英学会で20年教べんをとった。1911年からは三共株式会社に嘱託として勤務。1924年から当時本郷にあった第一外国語学校で英語教師をしていた。1911年には健康法に関する著書「裸体生活」も出版。日本の医…

続きを読む

community en ja

若松コロニー:第4回 東京の子孫「やっと会えた!」:佐吉と娘に写真で初対面

第3回を読む >> 「やっと会えた!」。若松コロニーにいた柳澤佐吉のやしゃご、山口香奈子さんは佐吉の写真と初めて対面した時の衝撃をこう振り返る。「写真はもうないものだとあきらめていました」。香奈子さんの目に映る佐吉は「優しい雰囲気のひいひいおじいさん」そのものだった。そして初めて見る佐吉の娘・米(よね)は美しかった。 米バークレー初の日本人女学生・学業は優秀で地元紙がフルページで紹介 佐吉の長女、柳澤米は日本人女性として初めてカリフォルニア大学(現在のUCバークレー校)を卒業した人物である。 今回発見された戸籍や履歴書などの資料によると米は1873年(明治6年)6月22日に日本で生まれた。1934年6月24日付の日米新聞のインタビューによると、東京九段下の飯田町1丁目で生まれたようだ。母・なみは米国で米を身ごもると日本に帰国し出産。産後間もなく再び渡米した。米国の空気の中で授かり育ったため「米(よね)」と名付けられた。 6歳の時にサンフランシスコのチャイナ・ミッションでなみとともに洗礼をうけ聖名を「ユナ」と名付けられる。当時そのミッションの地下では日本人が夜学を受けており、米はその教師の家に預けられグラマースクールに通っていたという。 1882年9月にサンフランシスコの小学校に入学後、84年9月に当時サンノゼにあったパシフィック大学の初等部(グラマースクールに相当…

続きを読む

community en ja

若松コロニー:第3回 待ち受けていた数奇な運命 - 日系女性の先駆者なみ

第2回を読む >> 過去の日系史料などでなみは「佐吉の妻」としか伝えられていない。しかし彼女にもストーリーがあり、何より彼女は北米における初期日系移民の先駆者の1人であった。 外交史料館所蔵の「航海人明細鑑」のリストで若松コロニーに向かったとされる一行の中には「佐吉妻」と明記されたなみの名がある。 『日米新聞』1934年6月24付に掲載されたなみの長女・米(よね)のインタビュー記事によると、なみは米を身ごもると、当時サンフランシスコには良い医師と助産師がいなかったことを理由に、出産のため日本に帰国。出産を終えると2、3カ月後には米を連れて米国に戻ったという。 6年後にも出産のため米を連れて日本に帰国し男児を出産。仙太郎と名付けたが、その子は若くして亡くなり、その後も男児2人の出産のためその都度日本に帰国したが、その2人も亡くなったという。今でも日米往復は費用もかかるが、なみは当時の船旅で何度も日米を行き来していたようである。 米が6歳の時、なみは米とともにサンフランシスコのチャイナ・ミッションで佐吉と同じくギブソン牧師から洗礼を受ける。 オークランドの邸宅で料理人として勤務したなみはその後、サンフランシスコにあった日本人の寄宿舎で管理人として働いていた。そんなある日、悲劇が起きる。 娘を残し帰らぬ人に・日本人の男に頭部撃たれ 1886年11月7日、1人の男がサ…

続きを読む

community en ja

若松コロニー:第2回 カリフォルニアで夢を追う — 新天地目指した柳澤佐吉

第1回を読む >> 若松コロニーにいた柳澤佐吉は戸籍によると1848年(嘉永元年)7月13日に生まれた。若松コロニーには20〜21歳ごろからいたと思われる。本籍地は群馬県碓氷郡坂本町となっており、横浜市史には南品川三丁目の伊勢屋長蔵のせがれと記されている。 日米新聞1934年6月24日付に佐吉の長女・米(よね)のインタビュー記事が掲載されており、父から聞いた話として米が伝えるには、佐吉はシュネル一行に加わり渡米し、若松コロニーがあったエルドラド郡では生活に苦労した様子が語られている。 若松コロニー崩壊後、佐吉は一時日本に帰国しており、1875年には内務省勧業寮の内藤新宿試験所で桃の缶詰の試作に携わっている。米国での農業経験と知識を買われての採用だったようである。 『サンフランシスコ・エグザミナー』紙1902年7月13日付の記事によれば、佐吉は日本に帰る時、日本の役に立つよう近代的な農業用具を待ち帰っていたようだ。しかし、カリフォルニアで夢をかなえるため再び渡米を決意する。 佐吉はサンフランシスコのチャイナ・ミッションで、当時中国人や日本人に宣教活動をし、後にサンフランシスコに設立された日本人キリスト教団体「福音会」の形成にも携わるオーティス・ギブソン牧師から洗礼を受け、キリスト教に改宗する。ギブソン牧師は1882年の中国人排斥法に真っ向から反対の声を上げた当時として…

続きを読む

community en ja

若松コロニー: 第1回 初期移民の先駆者、柳澤佐吉—子孫の自宅で写真や史料発見

「そういえば、ずいぶん立派なお墓だなあ」 東京都在住の山口香奈子さんは2004年、祖母の葬儀に参列した際、ふと先祖の墓の大きさを不思議に思った。インターネットで墓石に彫られている名前「柳澤佐吉」を検索してみた。すると初期日系移民の先駆者だった先祖が浮かび上がってきた。 柳澤佐吉は米国本土初の日本人入植地「若松コロニー」にいた人物として知られる。 今回、子孫の自宅から佐吉の写真や一家にまつわる歴史的史料が発見された。子孫によると佐吉一家の写真を公表するのは今回が初めてだという。 日系史の礎を築いた先駆者たちの歩んだ道筋が忘れ去られてしまわぬよう、見つかったばかりの写真や史料とともに、入植者だった佐吉とその家族の足跡、そして子孫が羅府新報に語った先祖への思いをお届けしたい。 * * * * * 北米初の日本人入植地・作物枯れ、2年で崩壊 1869(明治2年)、プロイセン人の武器商人で会津藩主・松平容保の軍事顧問だったヘンリー・シュネルに導かれ、本格的な入植を目的に日本から米国本土に渡った最初の移民団がカリフォルニア州北部エルドラド郡ゴールド・ヒルに入植地「若松コロニー」を築いた。 入植者は戊辰戦争に破れた会津藩の侍のほか、他地域出身者も含まれ、茶や桑の栽培を試みるが、近郊の金山から流れ出た汚染物質や水不足などで作物は枯れ、資金繰りの悪化も重なりわずか2年で若松コロ…

続きを読む