culture en ja
その2を読む >> ルポルタージュか芸術か 若次は、個人のポートレート、パレードや文化行事などの記録写真のほか、結婚式、クラブでの式典、卒業式な…
その1を読む >> 妻のテエが農業経営を管理してくれていたので、若次は自分の可能性を追求し、最初は通信教育で写真を学んだ。若次の家に伝えられて…
私の祖父、松本若次は外国に住む父を手伝うために太平洋を渡り、芸術家となって祖国日本に帰国した。彼はカリフォルニア州ロサンゼルスと日本の広島という…
松本若次は日本からハワイへ、そしてカナダやアメリカ西海岸へと渡ってきた多くの若者たち(その多くが10代)と同じだった。1906年、17歳の時に初…
community ja
およそ1年間にわたり日米をまたにかけて活動した加藤新一という人物の生涯と業績を追ってきました。1900年に広島市で生まれ、1982年に故郷で亡くなっ…
1900年生まれの加藤に直接会っている人は、日本で私が取材した範囲では加藤の甥にあたる吉田さんと加藤の実家近くに住む二人だけで、アメリカではロサンゼ…
最期は日本で迎えたい 二度目のアメリカ滞在で、新日米新聞社の主幹として1961年に「米國日系人百年史」をまとめた加藤新一は、まもなく新日米新聞社…
war ja
原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。 前回紹介した、被爆…
日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職し…
migration ja
「広島県移住史」より 加藤新一の出身地である広島県は、明治時代に入って全国でもっとも多くの海外移住者を送り出した「移民県」であることは、前回触れた…
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