清野敏幸さん—その7:JALでの日々、そして柔道名誉殿堂入り

空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を飾った。その後は各地の道場で柔道の先生として後進の指導にあたってきた。
一方で、カウンター業務から始めた日本航空(JAL)の仕事では、日米両方の…