日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

1921年にいち早く商業ラジオ放送を始めたロサンゼルスでは、1930年から定期的な日本語ラジオ放送が始まった。シアトル編に続き、今シリーズでは戦前ロサンゼルス地域での日本語放送の歴史を全5回に分けてたどる。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、『羅府新報』からの転載です。

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シリーズ「日本時間 ~日本語ラジオ放送史~」

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第5回 加州毎日放送

1932年7月、ロサンゼルスは地元で開催中のオリンピックで沸いていた。しかし、アメリカでは放送権料に関する合意に至らず、競技が国内向けにラジオ中継されることはなかった。新聞屋として速報を伝えるべく、『加州毎日』(加毎)は試合の行われるスタジアムからリトル東京のサンピドロ(サンペドロ)街にあるミツバ貿易商会に電話をかけ、毎日午後2時からその店頭で音声を流すことにした。加毎による有線放送の試みである。

その模様は「店頭に集まった群衆は約700名、刻々と入り来るニュースに対して咸声をあげ或者は熱狂して、ラウドスピーカーに向って、声援するという熱心振りであった」(『加州毎日』1932年8月1日)と伝えられている。

それから約…

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第4回 日本語放送界の第一人者、河辺照男

ロサンゼルスの日本語放送史を語る上において欠かすことのできない人物がいる。それは1929年から約9年間アメリカに滞在し、いろいろな番組でアナウンサーを務めた河辺照男である。しかし、当時を知る人でも河辺照男と言われてもピンとくる人はほとんどいないと思われる。というのも公の場では本名の河辺ではなく、前田照男、前田輝男、あるいは国本輝堂の名前を使っていたためである。

まずは河辺の略歴を紹介しよう。1899年(明治32年)に大分県で生まれ、日本大学の学生時代に国本輝堂の名前で「熱心なる与太弁士」と自称し、青山館で無声映画の弁士としてデビューした。その後赤坂帝国館、新宿武蔵野館、丸の内邦楽座などで洋画専門の弁士として活動した…

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第3回 日本文化放送

ロサンゼルスのブロードウエーと5番街にほど近いアーケード・ビル屋上にそびえ立つ、KRKDのネオンサインの付いたアンテナ鉄塔は長年にわたりダウンタウンのランドマークとして親しまれている。KRKDは戦前にはこのビルの3階にスタジオを有し、毎週月曜日の夜に日本人が集まり30分の日本語番組を放送していた。このように在留邦人にはおなじみの放送局であった。

KRKDで日本語放送が開始されたのは1932年9月のことである。当初「日本人ラデオ放送協会」と称したこの番組を主宰したのは、羅府新報記者の杉町八重充および同紙英文欄編集長のルイーズ須々木である。新聞社の業務として行われたものではないが、当初は羅府新報の住所を連絡先としたり、…

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第2回 日本語放送の始まり

1930年に入り待望のロサンゼルス初の定期的な日本語放送が開始された。ユタ州生まれの河内一正が主宰する「日本人放送局(あるいは日本語放送局)」である。開始は30年4月28日。月〜土曜日の正午から30分、KGFJで放送を行った。

アナウンスは南カリフォルニア大学大学院で政治学を学ぶ神田効一が担当した。「熱弁家で情熱家で世話好き」(『羅府日米』1932年8月22日)と評される神田は、その能弁と学業を生かして戦後愛知県議会議員や県議会議長を務めた。

放送を開始した第一週の番組は「下町美形連」が民謡や長唄を放送するとして、「安来節」(濱の家愛子、夏子)、長唄(濱の家君子)、「すととん節」(川福丸子)などの演題が報じられて…

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第1回 日本語放送前史

アメリカにおける商業ラジオ放送は1920年にピッツバーグでKDKAが開局したことに始まる。ロサンゼルスでは21年10月に認可されたKQLが嚆矢(こうし)である。翌年6月時点では25局が林立するほどまでになった。当時は放送に割り当てられた周波数が833kHz一つに限られていたため、各局で曜日と時間を調整しながら短時間の放送を行っていた。

ロサンゼルスで定期的な日本語ラジオ番組が開始されたのは1930年であるが、それ以前にも日本人のラジオ出演が見られる。まずは世界の共通言語と言われる音楽の分野を見ていこう。筆者が調べた限りでは、この分野のパイオニアと思われるのがメゾソプラノ歌手の梅崎スガ子である。梅崎は長崎県出身で19…

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