日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その5/5

その4>>

4. 終刊までの経緯と『南加文藝』が果した役割

創刊号は200部発行されたが、発行部数は次第に増えて第21号から25号までは倍の420部になった。藤田を中心にした熱心な合評会も毎号欠かさず開かれていた。

1981年、30号を記念して東京のれんが書房新社から『南加文芸選集』が出版された。発行部数は1,000部、この中には1965年から80年までに発表されたものの中の秀作が収められている。去った山城、野本もこの時にはすでに和解しており、二人の評論も含まれている。日本で発行されたことは、アメリカでこのような日本語の文学同人誌が続いていることを日本人に知らしめた。日本の伝統から離れることで新しさを求める現代日本の作家の作…

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その4/5

その3>>

水戸川光雄は、トゥーリレイクの『鉄柵』時代からキラリと光る短編を書いて、その才能の片鱗が見えたが、『南加文藝』でも藤田に劣らず多くの作品を発表している。彼は第2号から23篇の短編小説を載せている。「風と埃」(第9号)、「焦点のない日々」(第15、16号)、「曳かれ者の歌」(第22、23号)、「雪の朝」(第28,29号)「我らは貨物なり」(第34号)など圧倒的に強制収容所とその後の抑留所生活をテーマにしたものが多い。これらは収容所内で書いていたものの続きと言える一連の作品群である。

この他に老人を描いたいくつかの佳作がある。「くわい頭」(第30号)は年老いた母を郷里に訪ねる話、「差し繰られた人生」(第5号)は心な…

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その3/5

その2>>

3.『南加文藝』の内容

『南加文藝』の作品には三つの流れがある。第一は戦前から創作を続けてきた一世の作品である。これらの人びとにはまず加川文一が挙げられるが、その他、文一夫人の桐田しづ、外川明、矢尾嘉夫、萩尾芋作など短詩型文学の人が多い。

第二は創作の中心となった帰米二世グループである。加川文一は指導的立場にいたが、実質的なリーダーは藤田晃であった。彼は編集だけでなく、自らもエネルギッシュにたくさんの小説を書き、毎月の合評会で手厳しく作品を批評した。彼らの作品を文学のレベルにまで高めようとする熱意につき動かされながら藤田は活動した。これら帰米二世にはトゥーリレイク出身者が多いが、ポストンやマンザナにいた忠誠組の人…

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その2/5

その1>>

2.「十人会」から「南加文芸社」へ

          胸ぬちにうづく思ひは言ふを得ず歌になし得ず涙流るる  
                                    …

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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その1/5

『南加文藝』はアメリカでもっとも長続きした日本語による文芸同人誌である。第二次大戦中、ヒラリヴァー強制収容所の『若人』に始まった帰米二世の文芸活動は、トゥーリレイク隔離収容所の『怒濤』、『鉄柵』を経て、戦後はニューヨークで『NY文藝』およびロサンゼルスで『南加文藝』となった。『南加文藝』は『NY文藝』が終わったあとも続き、1986年の『南加文芸特別号』の出版で20年の歴史に幕を下ろした。『南加文藝』は戦争の中で芽ぶいた帰米二世文学が木となって咲かせた花ともいうべきものである。

しかしこれは帰米二世にとどまらず、新しい戦後移住者の文学の種を蒔くことになった。その種もやがて芽を出し、枝葉を茂らせた。戦後移住者の参加はそのテー…

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