日系カナダ人強制収容から80周年

日系アメリカ人にとって、大統領令第9066号が発令された「1942年2月19日」は、忘れてはならない「Day of Remembrance(追憶の日)」。日系カナダ人にとっては、内閣令第1486号「1942年2月25日」がそれに該当するだろう。今年は日系人の強制収容から80年目である。日系カナダ人社会が、どのようにして戦争に巻き込まれていったのか、3回のシリーズを通じて、一世と二世リーダーたちを中心に読み解いてみたい。

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第3回 カナダ日系社会と「大本営発表」

第2回 >>

第一次世界大戦の後、日本は国際連盟に加盟し、日英同盟は破棄された。日英同盟の延長に関しては、英国自治領カナダの執拗な反対があった。カナダは英国から距離を置き自治権を強化し、安全保障のために米国との友好関係をより重視するようになったのである。

すでに、日本の経済力と軍事力の増大や露骨な拡張主義は、西洋列強の脅威となっていた。彼らの警戒心が人種差別意識によって増幅され、その矛先が北米の日系社会に向かったのは当然の帰結だったかもしれない。

1920年代、BC州政府は日系人の漁労許可証の4割停止を断行した。ヘネー農会の井上次郎は見兼ねて、「落伍者をだしては日本人の恥だ」と失業者を迎え入れた。だが、この善意はい…

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第2回 「男のみ」の移動から「総移動」へ

第1回 >>

そして、真珠湾攻撃の後、1942年1月、カナダ政府は、18歳以上45歳未満の日系人男子を道路建設キャンプに送ると発表した。当時44歳のボーディング・ハウス(下宿)経営者・川尻岩一(かわしり・いわいち)がそのキャンプ・リーダーであり長老格だったが、彼の知力と胆力は特筆に値する。彼は鳥取県人30数名をまとめて3月12日、総勢108人が道路キャンプへ向かった。

「男子が移動すれば、あとの日系人は移動しなくてよいと言って騙した人がいるのです」。「騙した人」とは、日系社会のボス・森井のことである。

道路キャンプでは、川尻さんはキャンプ全体の委員長、仲裁役として皆の面倒をみた。家族の身代わり、日系社会のために…

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第1回 日系人はこうして戦争に飲み込まれていった

日系アメリカ人にとって、大統領令第9066号が発令された「1942年2月19日」は、忘れてはならない「Day of Remembrance」。日系カナダ人にとっては、内閣令第1486号「1942年2月26日」がそれに該当するだろう。今年は日系人の強制収容から80年目である。日系カナダ人社会が、どのようにして戦争に巻き込まれていったのか、一世と二世リーダーたちを中心に読み解いてみたい。

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1941年12月7日朝、真珠湾攻撃が日系人の日常をひっくり返した。バンクーバー市内のフェアビュー日本語学校校長の宮崎孝一郎さんは「その朝」のことを自著『明けゆく百年』にこう記している:

朝のラジオ番組の…

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