静かな戦士たち

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。

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戦士たちに捧ぐ歌 「静かな戦士たち」シリーズを終えて

2002年、二世復員軍人会の理事をしていたトーシ・オカモトさんが北米報知オフィスに現れ、残り少ない「二世ベッツ」の生の声の記事を依頼された。リストは40人ほど。話したがらない方、認知性をわずらってしまった方を抜かし、年長者から2時間に限定してインタビューを始めた。主旨は、アメリカでも一般にはあまり知られていない442部隊とMIS(米軍諜報部員)の事実を英語でインタビューし、日本語で日本の国、日本人に届けることと、彼らの言いたかったことをそのまま記録として残すこと。

「トーシ、次はあなたの番よ。いつがいい?」とオカモトさんに電話した時、意外なことを言われた。「みきこ、僕はまだ準備ができていないんだよ」。どんな準備が必要な…

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岩本 義人(よしと)さん

「(戦後の)フィリピンでね、よく日本人に間違えられたんです。アメリカの軍服を着ているのにね。(二世兵士たちと)何人かでカフェーに入っていったら、『日本のお茶、いかがですか?日本の歌は?』って、ピアノに走って行っていきなり『軍艦マーチ』をひきだしたんです。その後は、『支那の夜』をね」と笑って語るのは岩本義人さん。米国諜報部員として日本人捕虜の登録のため、戦後まずフィリピンに送られ、続いて横浜に2年駐在した。もう過去の話だからか、淡々と笑顔で話す。

5人兄弟の4男、ワシントン州ワパト市に生まれる。両親は熊本県出身。父親は1900年代前半、熊本では林業に就きワシントン州に移住してから「高木のてっぺんを木から木へと飛び回りなが…

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松井 尭(たかし)さん

「『勝てば官軍』だけがねぇ、戦争に負けたものを裁くのは、不公平だとか…。例えば広島に原爆を落としたと、それで何10万人という市民が死んだと。これはこういうことに関わった人たちも戦犯にかけないといけないということを言うんですけど、アメリカは『官軍』だからしょうがないんだよねぇ。そういうことをね、あの当時、東京裁判で言ったアメリカ人もおるのよ。本当はね、判事って言うのはね、連合軍以外の人がやるべきだと」

日本降伏後の横浜でB級裁判にアメリカ軍属の調査官として加わった松井尭(たかし)さんは、当時を思い出す。戦後の日本に進駐軍の一員として渡り、復興に携わった。早期復興の成功の影にどれだけの帰米二世兵士の努力があっ…

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ジョージ・コーシ(合志)さん

「日本語忘れちゃったなぁ」と言いながらも、きちんとした日本語で話すのは終戦直後米国進駐軍とともに日本へ渡り、東京裁判で法務官として活躍したジョージ・コーシさん。92歳(当時)。マッカーサー元帥のもと、新日本国憲法の草案にも寄与した。傍らには占領時代に日本で生まれた長女、ジョイスさんが、数年前他界した夫人、アイさんの写真の前で微笑む。

コーシさんの両親は熊本からの移民。「初めに父が来て、その後(日本にいる)おじいさんが母を世話して送り、こちらに来て初めて父に会ったそうです」と写真結婚を自分のことのように照れながら話す。両親は小作農家を営んだ後、デンバーでホテルを購入し日本人相手に経営する。

コーシさんはコロラド州グリー…

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ジミー・カナヤさん

「戦争(第2次世界大戦)が終っても、退役しなかったんですよ。そのまま軍隊に残って韓国に行きました」。少年時代から軍隊に憧れていたジミー・カナヤさんは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、74年に引退するまで軍隊一筋のベテランだ。

「日本との戦争が終る前から、日本を占領した場合管轄の指揮官養成のためにと、日本の慣習、宗教、日本語の勉強をしていたのですが、二世の僕でさえ『どこに行きますか』くらいの日本語を教えることになって…。ところが、実際に戦争が終ると必要がなくなったらしく、日本語のクラス250人、全員が韓国に飛ばされました」とカナヤさんは笑いながら語る。「僕はたった1人の日系二世で、ソウルでもその後行った満州…

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