1932年7月、ロサンゼルスは地元で開催中のオリンピックで沸いていた。しかし、アメリカでは放送権料に関する合意に至らず、競技が国内向けにラジオ中継されることはなかった。新聞屋として速報を伝えるべく、『加州毎日』(加毎)は試合の行われるスタジアムからリトル東京のサンピドロ(サンペドロ)街にあるミツバ貿易商会に電話をかけ、毎日午後2時からその店頭で音声を流すことにした。加毎による有線放送の試みである。
その模様は「店頭に集まった群衆は約700名、刻々と入り来るニュースに対して咸声をあげ或者は熱狂して、ラウドスピーカーに向って、声援するという熱心振りであった」(『加州毎日』1932年8月1日)と伝えられている。
それから約4年が経過した36年2月6日に加州毎日放送がKGERで開始された。同局はロングビーチにある放送局であるが、リトル東京にほど近いビル内にスタジオを設けていた。アナウンサーには尾座本導が抜擢された。尾座本は早稲田大学に留学した後、日本語教師や仏教青年会の幹部を務め、日系社会では顔を知られた人物であった。当初は新聞社員が交代でアナウンサーを務めるとされたが、尾座本の評判が予想外に高く、専属アナウンサーとなった。
放送内容は娯楽と藤井社長の講演で構成されていた。新聞社主催でありながら、ニュースは放送されなかったようである。娯楽については、ハリウッド、キーストン、サン…