Tetsuya Hirahara

中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。2020年に北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を自費出版。

(2022年 9月更新)

media ja

日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第5回 加州毎日放送

1932年7月、ロサンゼルスは地元で開催中のオリンピックで沸いていた。しかし、アメリカでは放送権料に関する合意に至らず、競技が国内向けにラジオ中継されることはなかった。新聞屋として速報を伝えるべく、『加州毎日』(加毎)は試合の行われるスタジアムからリトル東京のサンピドロ(サンペドロ)街にあるミツバ貿易商会に電話をかけ、毎日午後2時からその店頭で音声を流すことにした。加毎による有線放送の試みである。 その模様は「店頭に集まった群衆は約700名、刻々と入り来るニュースに対して咸声をあげ或者は熱狂して、ラウドスピーカーに向って、声援するという熱心振りであった」(『加州毎日』1932年8月1日)と伝えられている。 それから約4年が経過した36年2月6日に加州毎日放送がKGERで開始された。同局はロングビーチにある放送局であるが、リトル東京にほど近いビル内にスタジオを設けていた。アナウンサーには尾座本導が抜擢された。尾座本は早稲田大学に留学した後、日本語教師や仏教青年会の幹部を務め、日系社会では顔を知られた人物であった。当初は新聞社員が交代でアナウンサーを務めるとされたが、尾座本の評判が予想外に高く、専属アナウンサーとなった。 放送内容は娯楽と藤井社長の講演で構成されていた。新聞社主催でありながら、ニュースは放送されなかったようである。娯楽については、ハリウッド、キーストン、サン…

continue a ler

media ja

日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第4回 日本語放送界の第一人者、河辺照男

ロサンゼルスの日本語放送史を語る上において欠かすことのできない人物がいる。それは1929年から約9年間アメリカに滞在し、いろいろな番組でアナウンサーを務めた河辺照男である。しかし、当時を知る人でも河辺照男と言われてもピンとくる人はほとんどいないと思われる。というのも公の場では本名の河辺ではなく、前田照男、前田輝男、あるいは国本輝堂の名前を使っていたためである。 まずは河辺の略歴を紹介しよう。1899年(明治32年)に大分県で生まれ、日本大学の学生時代に国本輝堂の名前で「熱心なる与太弁士」と自称し、青山館で無声映画の弁士としてデビューした。その後赤坂帝国館、新宿武蔵野館、丸の内邦楽座などで洋画専門の弁士として活動した。神田の東洋キネマでは徳川夢声、大辻司郎、松田翠声といった人気弁士と肩を並べて出演した。その傍ら映画製作にも乗り出し、『落ち葉の唄』の原作や、前田映画製作所による『歩み疲れて』と『青春序曲』への出演・制作を担当した。 1929年4月に帝国通信社特派員前田照男として渡米。ロサンゼルス到着直後に羅府新報を訪問し、弁士の国本輝堂であることを明かしながら、渡米の目的は南カリフォルニア大学で映画技術を学ぶことと語っている。 30年8月に羅府新報の記者になり前田輝男と称し、同紙主催の映画会では弁士として活躍した。32年8月には羅府日米に移籍し、36年9月からは新世界新…

continue a ler

media ja

日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第3回 日本文化放送

ロサンゼルスのブロードウエーと5番街にほど近いアーケード・ビル屋上にそびえ立つ、KRKDのネオンサインの付いたアンテナ鉄塔は長年にわたりダウンタウンのランドマークとして親しまれている。KRKDは戦前にはこのビルの3階にスタジオを有し、毎週月曜日の夜に日本人が集まり30分の日本語番組を放送していた。このように在留邦人にはおなじみの放送局であった。 KRKDで日本語放送が開始されたのは1932年9月のことである。当初「日本人ラデオ放送協会」と称したこの番組を主宰したのは、羅府新報記者の杉町八重充および同紙英文欄編集長のルイーズ須々木である。新聞社の業務として行われたものではないが、当初は羅府新報の住所を連絡先としたり、独占的に番組表を掲載したりするなど、同紙のバックアップがあったと思われる。 初日の番組では羅府第一学園を卒業したばかりの鬼頭文子がアナウンスを担当し、迎田羅府日会長、安倍中央日会長、佐藤領事などの祝辞と井上協子の独唱、ジミー山本のバイオリン演奏が放送された。地元日系社会の有力者が並んでおり、単なる商業的な番組との違いが感じられた。当初の番組には若い二世音楽家や日本語学校生徒を積極的に出演させていたが、そのうちに日本のレコードを使用した娯楽的な要素を増やしていった。 放送が始まってひと月を過ぎた10月6日、リトル東京の中華料理店三光樓で今後の日本語放送のあり方が…

continue a ler

ja

日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第2回 日本語放送の始まり

1930年に入り待望のロサンゼルス初の定期的な日本語放送が開始された。ユタ州生まれの河内一正が主宰する「日本人放送局(あるいは日本語放送局)」である。開始は30年4月28日。月〜土曜日の正午から30分、KGFJで放送を行った。 アナウンスは南カリフォルニア大学大学院で政治学を学ぶ神田効一が担当した。「熱弁家で情熱家で世話好き」(『羅府日米』1932年8月22日)と評される神田は、その能弁と学業を生かして戦後愛知県議会議員や県議会議長を務めた。 放送を開始した第一週の番組は「下町美形連」が民謡や長唄を放送するとして、「安来節」(濱の家愛子、夏子)、長唄(濱の家君子)、「すととん節」(川福丸子)などの演題が報じられている。濱の家、川福はいずれも当時ロサンゼルスにあった料亭(レストラン)の屋号である。料亭のお座敷に出ていた芸妓(げいぎ)がその腕をふるったのである。 ちなみに川福丸子は1928年にロングビーチで開催された太平洋南西博覧会の日本デー行事の一環として企画されたKGERでのラジオ番組にも他の芸妓とともに出演していることからしても、その実力の程が知れる。このような芸妓のラジオ出演はバンクーバーからロサンゼルスまで、米大陸西海岸各地の日本語番組で一般的に行われていることであった。 当初は音楽主体であった番組も、そのうち驚くほどバラエティーに富んだメニューを取り入れて…

continue a ler

media ja

日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第1回 日本語放送前史

アメリカにおける商業ラジオ放送は1920年にピッツバーグでKDKAが開局したことに始まる。ロサンゼルスでは21年10月に認可されたKQLが嚆矢(こうし)である。翌年6月時点では25局が林立するほどまでになった。当時は放送に割り当てられた周波数が833kHz一つに限られていたため、各局で曜日と時間を調整しながら短時間の放送を行っていた。 ロサンゼルスで定期的な日本語ラジオ番組が開始されたのは1930年であるが、それ以前にも日本人のラジオ出演が見られる。まずは世界の共通言語と言われる音楽の分野を見ていこう。筆者が調べた限りでは、この分野のパイオニアと思われるのがメゾソプラノ歌手の梅崎スガ子である。梅崎は長崎県出身で1910年代初めに音楽の勉強をするために渡米した。シンシナチ音楽院を卒業後、1917年頃にロサンゼルスに移り、教会での公演活動や声楽教師をするかたわら羅府新報で働いていた。 その梅崎が1922年7月11日にロサンゼルスタイムズの運営するKHJの音楽番組に出演した。日本語で「蝶々」と「出雲の子守歌」を、英語で「トワイライト」と「ザ・バレー・オブ・ラフター」を歌った。日本語曲は作曲家のゲルトルード・ロスが「大和調べ」(The Art Songs of Japan)として出版した楽曲集に収められているもので、この放送ではロス自らが伴奏を行った。 また、1924年1月4日…

continue a ler