「ミンダナオの山の中でね、いきなりその人にばったり出会って、「私はアイノコです」なんて日本語で言うんだもん。びっくりしちゃったよ」 フィリピン・ダバオ在住の日本人実業家のYA氏は、Aさんという一人のフィリピン日系人との突然の出会いをそう語る。当時はジャーナリストで、ミンダナオ島山岳部に出没する新人民軍(NPA)などゲリラの活動を追っていた。YA氏は、その時はじめてフィリピン日系人なるものの存在を知ったという。
ダバオは、ミンダナオ島にあるフィリピン共和国第三の都市。フィリピン南部の政治・経済の中心であり、周辺のリゾート地へ向かう観光基地でもある。20世紀のはじめ、太田恭三郎に率いられた日本人移民労働者たちがここに入り、アバカ(マニラ麻)栽培を発展させた。太平洋戦争直前の1940年には、在留日本人は約2万人。外南洋最大の日系社会を形成し、13の日系小学校が存在していたとされる(天野, 1990, p.64; 小島,1999, p.181)。ダバオ日本人移民とその子どもたちの大戦をはさんだ想像を絶する苦難の物語は、多くのドキュメンタリーに描かれている1。戦後日本に引き揚げた移民たちのナマの証言は、『金武町史』や『宜野座村誌』など沖縄県の市町村史に採録されており、そちらを参照されたい。
今年2011年2月、筆者はダバオを訪れた。今回は、「海を渡った日本の教育」番外編として、ブラジル…