移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。

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清野敏幸さん—その7:JALでの日々、そして柔道名誉殿堂入り

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空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を飾った。その後は各地の道場で柔道の先生として後進の指導にあたってきた。

一方で、カウンター業務から始めた日本航空(JAL)の仕事では、日米両方の…

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清野敏幸さん—その6:除隊、就職、結婚

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この間、敏幸の人生は大半が柔道であったとはいえ、それだけに占められていたわけではない。1960年の3カ月の日本滞在では、大切な出会いもあった。

「講道館は週末が休みだったので、神戸のいとこのところに行ってこようと。その時に(のちに妻となる)みどりのお兄さんに『妹が京都で看護婦学校に行っているから会って来てくれ』と言われたんです」。そして、ちょうどその週末に会った神戸商業高校時代の友人と共に、京都を訪れる。

その時のことを思い返して、「連絡をとって『お前の兄貴から会ってくれというからまあ行くけど』と行って、京都のあの橋のところに連れていってくれたよね?」と敏幸が聞くと、「渡月橋?」とみどりが答える…

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清野敏幸さん—その5:アメリカ空軍に入隊

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敏幸の1959年以後を辿る前に、いったん敏幸の家族のストーリーを辿っておこう。1956年にアメリカに戻ってきた敏幸だが、父母や弟妹らも翌1957年にロサンゼルスに戻っている。この頃、1952年の移民法改正によって日本からの移民は年間185人に限って許可されていたが、市民の家族の呼び寄せはその人数制限の対象外であった。

「父は日本でナイロンストッキングの原料を輸入して製品化する仕事をしていました。そのストッキングの材料の製造元に行って、そこで自分の会社を作って仕事をするというので、ロサンゼルスからサウスカロライナに行ったんです。でも一人じゃ大変だから一緒に来いと、僕と下の弟と父の3人で車を運転して行…

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清野敏幸さん—その4:アメリカに帰国し、柔道を始める

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2週間の船旅の後、ロサンゼルスのサンペドロに到着。そこから迎えの車でデンバーに到着したのが1956年6月のことである。1週間ほど父の友人宅に世話になった後、敏幸はアメリカ人の白人の家にスクールボーイに入った。スクールボーイとはかつて日系移民の学生らがよく行っていた住み込みのいわゆる家政婦のような仕事で、アメリカ人の家で部屋を間借りし、皿洗いや掃除、子守り、料理など家の仕事をして少額の給金をもらい、学校に通うものであった。

敏幸のスクールボーイ先の近所には、父の兄の子である、いとこの健一郎が同じくスクールボーイをしていた。彼は敏幸の津貫での同級生で、同じように帰米であった。

「僕がアメリカに行く…

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清野敏幸さん— その3:ツールレイクから帰還船で日本に

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1945年末、オレゴン州ポートランドから、清野一家は横須賀へと向かうゴードン船に乗り込み、父母の故郷である鹿児島県の津貫へと向かった。戦後の日本での新たな生活は十分な食糧もなければ、田舎にはいまだ水道も通っておらず井戸から水を汲むような生活だった。敏幸はここで津貫小学校の2年生に進学する。

「確かツールレーキでは学校は日本語だけでしたので、帰って2年生にすぐに入りましたが、日本語はあまり不便しなかったですね」。

全米各地の収容所にはアメリカの公立学校があったが、ツールレイク隔離収容所では1943年に収容者らの資金によって、日本の教育に準じた国民学校が作られ、そこで日本語で教育が行われた。敏幸…

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